戦前の日本では北海道は植民地として扱われていた

日本の右翼勢力は「日本がアイヌに対して植民地支配をしたことはなかった」と言い張る。また、右翼勢力に限らず多くの日本人は北海道は日本の植民地ではなく、元から日本の領土の一部であったと漠然と信じている。

しかし、実のところ日本の北海道支配が植民地支配であったことは、戦前の日本の公文書や新聞も認める歴史的事実である。ここに掲載する史料を見れば、日本の右翼勢力が唱える「台湾・朝鮮は植民地ではなかった」という主張が嘘であることはもとより、当時の日本がアイヌモシリ、すなわち北海道すらも植民地として扱い支配していたことがわかる。ちなみに「殖民地」とは「植民地」の旧字体である。

日本の北海道支配は、元々住んでいたアイヌ民族に対して圧政を敷く、本土からの移民を大量に送り込む、移住してきた和人たちが一方的に経済開発して資源を奪う、などなど、様々な観点からも植民地支配と呼ぶことが十分に可能なものである。日本の右翼勢力は「中国政府のチベットやウイグルに対する支配こそが植民地支配だ」と言い張るが、中国の公文書や新聞などにそれらの地域を「植民地」と位置づける記述が登場したことは、残念ながらただの一度もない。



目次
1. 戦前の日本の公文書は北海道を植民地として扱っていた
2. 戦前の日本の新聞は北海道を植民地として扱っていた
3. 1912年の拓殖博覧会でも北海道は植民地として扱われていた
4. 北海道庁は戦前の北海道を植民地と認めている



戦前の日本の公文書は北海道を植民地として扱っていた


北海道殖民地ニ於ケル道路橋梁排水工事ノ請負随意契約ノ件・御署名原本・明治三十一年・勅令第三十七号



> 北海道殖民地ニ於ケル道路橋梁排水工事ノ請負随意契約ノ件

(これは明治天皇の勅令である)



公文類聚・第十二編・明治二十一年・第四十五巻・土地・土地諸則〜墾地 北海道殖民地調査



> 北海道殖民地調査



戦前の日本の新聞は北海道を植民地として扱っていた


神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 醗酵工業(01-002)魚拓

中央新聞 1912.5.18 (明治45)
植民地の清酒需要

▲朝鮮
(中略)

▲台湾
(中略)

▲関東州
(中略)

▲樺太
(中略)

北海道
北海道に於ける清酒の醸造者は可なり多く、其の産額も一年八万五千五百五十五石ばかりであるが、今日に於て内地から移入する清酒に対しては全国統計の見るべきものがないから、仮りに其生産額高だけを消費高と見る時は人口百五十万であるから一人平均五升七合余になる又此を価格に見積ると生産高が三百三十五万五千三百二十九円であるから一人二円二十三銭六厘となるのである



神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 皮革工業(01-012)魚拓

国民新聞 1914.10.15 (大正3)
(一)製革工業

製革工業の将来

(中略)

我国に於ける畜産業の発達は近年稍々見るべきものあり将来益々発達せしめざる可らずと雖も土地の自然的条件不利の為め到底大なる発達を期す可らざる状態に在り勿論植民地たる朝鮮北海道の如きに於ては頗る有望なるものありとするも尚大組織の牧畜経営に就ては困難なる事情少なからず



神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 製鉄業(02-049)魚拓

福岡日日新聞 1917.10.11 (大正6)
鉄鉱と製鉄
高壮吉@@@談@@@九大工科教授

(中略)

植民地の鉄鉱されば将来製鉄事業を殷盛ならしむるには之を新領土に求めざる可らず幸にして朝鮮は赤鉄鉱、褐鉄鋼等豊富にして現在採掘に着手せる者もある位なれば将来探鉱の結果に依り如何なる有利の富鉱を発見するやも知れず又台湾にても現在は一鉄鉱山なきも東部海岸蛮界一帯には確に富鉱ある可き地質を有せるを信ず樺太も亦然り北海道にも尚幾千かの鉄鉱の存在ある可く信ぜらる、我が国にては大冶鉄鉱を無尽蔵視して或る一部には楽観せる者もあるが如きも此等は我が国民の想像せる如く豊富なる者にあらず之れとて寿命決して長き者にはあらず



神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 水利(1-059)魚拓

大阪朝日新聞 1919.10.23 (大正8)
植民地の米作と水利事業

(中略)

植民地といえる中には、朝鮮台湾の外満洲北海道を包含しても可なるが、満洲には百万町の水田適地ありと云うも、比較的容易に水田耕作をなし得べきは、安東県大石橋、奉天、開原の四地方を主として二十万町なるが、商祖権農業労力の関係上必ずしも容易ならず、北海道は七十万町の開墾適地あり内三十万町は水田となし得べしというと雖も、水利との関係上及治水事業は僅に石狩川下流に着手せられしのみにて、河川は□ね原始状態の侭に放任しあり、現に本年の如きも洪水の害は頗る大なりき、その大なる資源開発の為には、拓殖計画の更に規模を大にせざるべからず、然も直に米作を為し得るの地は必ずしも多からず、且気候の寒冷は容易に大規模の開拓を許さず。



神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 日本植民地経済事情(7-040)魚拓

大阪朝日新聞 1923.5.22 (大正12)
植民地経済会議 当局設置を急ぐ

(中略)

政府に於ては各関係省庁の官吏を以て植民地経済会議なるものを開設して鮮銀の移管問題を始め朝鮮、台湾、関東州、北海道等植民地全般に亙る金融機関其他経済問題全般の調査を為し根本的改善を期する事となり既に内閣に於て委員其他の決定も終り且つ政府当局も大いに之れが開設を急ぎつつあるから近く之れが開催を見る筈だと



1912年の拓殖博覧会でも北海道は植民地として扱われていた


1912年、日本の東京・上野公園で植民地の生産物を展示公開する拓殖博覧会が開かれた。


1912年の拓殖博覧会のポスター

このポスターを見ればわかるように、拓殖博覧会では「植民地の縮図」と称し、朝鮮、台湾、関東州、樺太、そして北海道を日本の植民地と位置づけていた。これも戦前の日本が北海道を植民地として扱っていたことを示す史料と言える。



北海道庁は戦前の北海道を植民地と認めている


出典:北海道庁『新北海道史 第3巻 通説2』のP879

開拓の進行はアイヌに新しい環境をもたらし、原住者植民地から居住植民地への変化と同時に、新しい高度な社会組織が移入されたが、海岸の日本人との接触の激しい地方の少数の者を除いては、アイヌは旧態依然たるもので、これらに対処しているだけの能力を有するものはまれであった。



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