松浦武四郎が記録した日本によるアイヌ大虐殺


松浦武四郎(1818 - 1888)

アイヌ民族は元々文字を持たなかった民族であるため、アイヌ民族の歴史に関する史料はどうしても日本側のものに偏らざるを得ず、したがって日本がアイヌ民族に対して繰り返してきた数々の迫害の全貌など日本にとって都合の悪い歴史的事実については不明な点も多い。

それをいいことに日本の右翼勢力は、「日本はアイヌに対し、アメリカ大陸やオーストラリア大陸などの先住民族が白人から受けてきたようなジェノサイドをしたことなど一切なかった」といった主張を繰り返している。

そんな中、三重県出身の幕末の探検家であり、後に開拓使の長官・次官に次ぐ開拓判官という役職に登用されて「北海道」という地名の名付け親にもなった松浦武四郎(まつうら たけしろう、1818 - 1888)が残した記録は、日本によるアイヌ民族への迫害の歴史の一部を暴露してくれる第一級の史料として貴重である。

松浦の記録は、当時、松前藩の虐政のもとで和人(日本人)が多くのアイヌ民族を強制連行し、強制労働をさせ、奴隷にし、強姦し、性病を含む病気を広め、虐殺していた歴史的事実を明らかにしている。これらの残虐行為の結果、多くのアイヌ民族が平和な家庭と生活環境を破壊され、子供を産めないようにされ、無残に命を落とし、人口がぐんぐん減っていった。

日本はアイヌ民族に対してこのような殺戮を繰り返し、人口を激減させ、かつてのコシャマインの戦い(1457年)やシャクシャインの戦い(1669年)、クナシリ・メナシの戦い(1789年)のような大規模な抵抗運動を起こせなくなるまで弱体化させた上で、満を持してアイヌモシリを植民地化したのである。松浦の記録はその残酷な虐殺史のほんの一部分に過ぎない。

このような悪魔の所業の数々はアイヌ民族に対する明らかなジェノサイド(民族浄化)であり、「アイヌ大虐殺」とでも通称して差し支えのないものである。



目次
1. 日本がアイヌ民族にしたこととは?
2. 『知床日誌』に記録された日本の残虐行為
3. 『近世蝦夷人物誌』に記録された日本の残虐行為
4. 日本の残虐行為を原因とするアイヌ民族の人口激減



日本がアイヌ民族にしたこととは?


日本のネットの一部で有名な文章としてこういうものがある。
「知床日誌」 松浦武四郎

幕末の探検家・松浦武四郎の手記によると、アイヌ女性は年頃になるとクナシリに遣られ、そこで和人達の慰み物になり、人妻は会所で番人達の妾にされたと書かれている。夫は漁場で酷使され、妻は番屋で慰み女とされ、子供が出来た場合、和人達はそれを突き殺し、押し殺す

日本へ反発できなくなった大きな理由に人口減少がありますが、その大きな原因は、女達が日本人の慰み者にされたこと、性病を含む伝染病を移されたこと、生活基盤を失わされたこと、などがあげられます

松浦武四郎によると、夫婦は仲を引き裂かれ、男だけクナシリ送りとなり、そこで昼夜の別なく奴隷労働に使役され、斜里、網走では、女は年頃(16・7)になるとクナシリ(この当時、現地のアイヌは酷使によって全滅していた)に連行されて、諸国からきている和人に体を弄ばれる。男も年頃になると連行され、働ける間は遠い土地で酷使され、故郷に帰ることが許されるころには既に老人となっており子供を残すことができなくなった

和人によって妊娠させられた妻は、唐辛子汁を飲ませる等で堕胎させられることにより、子供を残せない体にされた。さらに和人に性病を移されることなども手伝い、クナシリ・メナシ地方のアイヌ人口は激減した

松浦によると無理やり妾にされた挙げ句に性病をうつされ、顔が崩れて悪臭を放っているアイヌが山にたくさん居たとある。
これは松浦武四郎の著書『知床日誌』のうちの、日本によるアイヌ民族への残虐行為についての記述箇所を短くわかりやすく要約したものである。この他、同じく松浦の著書『近世蝦夷人物誌』にも同様の記述がある。

次以降の節では、この『知床日誌』および『近世蝦夷人物誌』から日本によるアイヌ民族への残虐行為についての記述箇所の原文を引用して現代語での解説を添えたものを『アイヌ民族抵抗史』という本から引用する。ちなみに同書は初めて世に出た当時、著者をして「私の知るかぎりではアイヌの側に立ったアイヌの歴史は本書をのぞいて一冊もない」とまで言わしめた、画期的な名著である。

なお一つ警告しておくが、こういう日本に都合の悪い事実が発覚するたびに、いい加減な根拠で嘘だ捏造だと喚き散らすバカが日本人の中から必ずと言っていいほど湧いて出るが、そもそも松浦は「北海道」の名付け親であり、仮にこれらの記録が嘘・捏造であるとするなら「北海道」はそのような人物に命名されて成立した地域ということになり、その成り立ち自体の正統性が揺らぐことになる、ということを覚えておかなければならない。



『知床日誌』に記録された日本の残虐行為


出典:新谷行『アイヌ民族抵抗史』(河出書房新社)のP143-144

一八四五年(弘化二)以来、数度にわたって蝦夷地の実情をさぐった松浦武四郎は、アイヌ民族困窮の状態を『知床日誌』(一八六二年)で次のように記している。

「扨千方に成る所の汐溜りには、鰈(シヤコンベ)、小鰯(ホンセツフ)、また七星鰯、フンペトッホと云うさよりに似たる物、ホツキ貝等多し。打上げるを腰の二重にもなる斗の爺婆や、見る影もなく破れて只肩に懸るばかりのアツシを着、如何にも菜色をなしける病人等杖に助(すが)り、セカチ(男子)、カナチ(女子)等大勢其汐干にあさりけるが、我等を見て皆寄来りし故其訳を聞くに、舎利、アバシリ両所にては女は最早十六七にもなり夫を持べき時に至れば、クナシリ島へ遣られ諸国より入来る漁者、船方の為に身を自由に取扱われ、男子は娶る比に成ば遣られて昼夜の差別なく責遣われ、其年盛を百里外の離島にて過す事故終に生涯無妻にて暮す者多く、男女共に種々の病にて身を生れ附ぬ病者となりては、働稼のなる間は五年十年の間も故郷に帰る事成難く、又夫婦にて彼地へ遣らる時は其夫は遠き漁場へ遣し、妻は会所または番屋へ置て番人、稼人(皆和人也)の慰み者とせられ、何時迄も隔て置れ、それをいなめば辛き目に逢うが故只泣々日を送る事也。如レ此無道の遣い方に逢うが故に、人別も寛政中は弐千余(文政五壬午改三百十六軒千三百弐十六人、安政五戊午改百七十三軒七百十三人)有しが、今は漸々半に成しぞうたてけり。此儘にては今廿年も過れば土人の種も如何と案じける由等話、其故ここには丈夫の者なき故猟漁等出来難く、其日其日の烟も立難きが故、毎日此汐の干を待ちては小貝を拾い、汐満ち来れば野山に入て草の根等掘て辛き命を繋ぐ事とぞ聞く。」

現在の網走、斜里地方のアイヌ部族二千余人が一七八九年(寛政元)の蜂起の舞台になったクナシリ島に強制連行され、重労働を強いられている事実を、松浦武四郎は暴露したのである。



『近世蝦夷人物誌』に記録された日本の残虐行為


出典:新谷行『アイヌ民族抵抗史』(河出書房新社)のP147-148

漁場の番人は、春になるといままで山猟に出かけていたアイヌ部族を狩り集めて、海岸の運上屋、会所、番屋等に連れて行き、春は鰊、夏は海鼠、昆布、秋は鮭というように雪の降る頃まで働かせるのである。しかも与える食べ物といえば、『近世蝦夷人物誌』が西蝦夷地の久遠会所における事実として記録しているように、一日一椀の飯、あるいは残飯を粥にのばしたものを一食一椀というようなむごさであった。

「請負人石橋屋松兵衛といえるものは、(中略)請負地のクトウへ引越し自ら支配人となり、非道強慾西場所並に東中にても誰しらぬものなく、土人を使うこと犬馬の如く、十七、八歳より五十歳位までの者は一年の給代漸々八合盤(舛)といえるもて八升宛入れしを四俵、五俵位宛に遣い、一日の飯米と云ば僅一合八勺ばかりの椀に玄米一杯を与え、其も運上屋に残り飯のある時は其飯を粥にのばし、是を一日に三椀宛遣して責遣うまま、幼なき者やまた老たるものは何も喰することもなり難く、一枚の古着といえども何の手立あるや、唯他所より出稼といえるものの来り、漁業等の者等が其飢寒を憐れみて時々古きものの一枚をも遣し候にて漸々凌ぎ居りしが、左有る故五拾余歳まで生きる者なく、皆卅歳より四十歳前後にて病を受けて死し、子供も七、八歳まで内必らず飢と寒との為めに死し…」

こういった例はごく普通で、たとえば夕張川筋に住んでいたアイヌたちは、家族のうち働ける者を浜へつぎからつぎと連れて行かれ、酷使された上、病気で働けなくなると薬も与えられないで追い出されている。石狩川上流に住むアイヌ部族はとくにひどく、働ける男はもちろん、女、子供までも石狩湾一帯の海岸漁場に連れ出されて酷使された。このため、この出稼ぎ(強制労働)を恐れて自殺する者まで出たのである。

これに加えて支配人、番人等によるアイヌ婦女子への凌辱行為があった。当時、和人の婦女子の居住は松前城下近辺に限られ、蝦夷地への居住は禁じられていた。したがって、和人は性の対象として、手あたり次第にアイヌメノコ(女性)を犯したのである。

松浦の実見によれば、たとえば現在の釧路場所においては「四十一人の番人三十六人まで土人の女(め)の子を奸奪して妾となし」といった状態であった。彼らは情欲に任せてメノコを強姦し、思いのままにならぬ女は、その夫を遠い漁場に強制的に追いやり、その留守に犯したりしたのである。犯されたアイヌメノコの多くは感染した梅毒に悩まされた。また、これらの和人は、彼女たちが妊娠すると唐辛子やいぼたなどの煎じ薬を飲ませて堕胎させ、生まれた子は「鯨針にて刺殺し、また膝の下に敷殺」(松浦武四郎『炉心余赤』)し、病気にかかれば山に棄てたりした。



※管理人注:調べてみたところ、文中で挙げられている参考文献の『炉心余赤』は、正確に表記すれば『燼心余赤』である。ネット検索でも『燼心余赤』なら多数検索結果に出る。



日本の残虐行為を原因とするアイヌ民族の人口激減


出典:新谷行『アイヌ民族抵抗史』(河出書房新社)のP151

このためにアイヌ民族の人口はぐんぐん減っていく。『新北海道史』によれば、アイヌ民族の人口(松前地方居住の者を除く)が文化年間(一八〇四〜一八一七年)に二万六八〇〇余人であったのが、文政五年(一八二二年)には二万三七二〇人となり、安政元年(一八五四年)には一万八〇五人となっている

なかでもとくにひどかったのは、シャコタン(積丹)場所から石狩場所、宗谷場所に至る地方で、文政五年に六一三一人だったのが、安政元年には三四〇〇人余、わずか三十年ほどの間にほぼ半減しているのである。また、釧路から根室、斜里にかけても減少がひどく、文政五年に五九七五人だったのが三六〇九人(三九・三%減)となっている。松浦武四郎の著述、とりわけ『近世蝦夷人物誌』『知床日誌』からもわかるように、場所支配人や番人の横暴が最もひどかったのがこの二地方で、アイヌの人口激減の原因が、これら和人による酷使、虐待、遺棄、堕胎等々の行為にあることは言をまたない



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