チベット族の人々が語る現在の豊かで幸せな暮らし

  • 反中勢力A「中国政府はチベット人を弾圧している!」
  • 反中勢力B「中国政府はチベットを近代化したと言うがその恩恵を受けているのは漢族だけ!」
  • チベット族の人々「いいえ、そんなことはありません。中国政府のおかげで私たちの暮らしは農奴制時代とは比べ物にならないほど豊かで幸せなものになりました。私たちは中国政府に感謝しています」
  • 反中勢力A,B「」
チベット族の人々はこのように中国政府の統治によって生活水準が飛躍的に向上したことに感謝しているのである。名前も言語も文化もアイデンティティも保護しつつ、豊かで幸せな暮らしを実現する、これが中国政府のチベット統治の実態である。

中国政府のおかげでチベット族の人々の生活水準が格段に向上したことはチベットの僧侶たちですら認めている。彼らは、嘘つきダライラマと違って正直な人々である。

一体これのどこが反中勢力の言うような「民族浄化」などと言うのだろうか?アイヌ民族や琉球民族の人々の名前を一方的に日本式に変えさせ、言語も文化もアイデンティティも破壊しつくして大和民族に同化させた民族浄化国家日本とは大違いである。



目次
1. 西蔵の元農奴が語る生活の変化
2. 旧チベットの農奴の今と昔
3. チベットの女性活仏、改革開放以来のチベットを評価
4. 元農奴が語る今と昔――飢えの苦しみ、殴打から農地に酔い倒れるほどの幸せ
5. バジェさん、自分も人であることを知らなかった
6. チュヅァさん:昔の生活に二度と戻りたくない
7. 「厳寒を乗り越えた人は太陽の暖かみが分かる」
8. 農奴から俳優へと人生を変えた3度の逃亡
9. チベット族の牧畜民:新旧社会の大きな違い
10. チベット民主改革で百万人の農奴が解放された
11. 「言葉が話せる家畜」から土地をもつ自由な人間に
12. チベットの民主改革、人々の政治参与の権利を保障
13. ラサ哲蚌寺の僧侶、チベット民主改革を語る
14. かつての農奴、開放記念日について語る
15. ラサ・ガバ村村民、百万農奴解放50周年を祝う
16. ドンジュツォーマの幸せな生活
17. チベット、百万農奴解放記念日を祝う
18. チベット、人々の生活レベルと幸福度が向上
19. 雲南省チベット族自治州 幸せな生活を過ごす農奴が昔を追憶
20. チベットの一般市民が感じた60年間の変化
21. チベット活仏の目に映る新旧チベット



西蔵の元農奴が語る生活の変化


記事の魚拓

拉薩(ラサ)市堆竜徳慶(トゥールン・デチェン)県羊達郷通ガ村は三方を山に囲まれた谷間の、典型的な蔵族(チベット族)の村だ。蔵族のおばあさん、平措卓瑪(音訳)さんは屹立する高山を背にした村の北端に住む。こぎれいな蔵式(チベット式)住宅の敷地内に入ると、82歳の平措卓瑪さんが夫の格桑阿旺(音訳)さんとひなたぼっこを楽しみ、屋上には色鮮やかなタルチョ(経文を印刷した祈祷旗)が風に舞っていた。

老夫婦は60年近くの結婚生活で4人の娘を育て上げた。現在は同居する娘一家の世話を受けている。娘一家が耕す12ムーの畑からは、家族に十分な量の裸麦、小麦、ジャガイモ、野菜が収穫される。穀倉には昨年収穫された穀物が麻袋14袋とドラム缶2本いっぱいに詰まっていた。平措卓瑪さんは「いまの生活はいいですよ。お腹いっぱい食べられるし、栄養もあるんですから!」と話す。

平措卓瑪さんは農奴の家に生まれた。18歳の時、30キロ余り離れた土地から母と共に通ガ村にやってきた。そのいきさつを平措卓瑪さんは「売られてきたんじゃないですよ。交換されたんです」と話す。当時、3人の農奴主が村全体の農奴を順番で管理しており、農奴は耕す土地を割り当てられるだけで収穫の取り分はなかった。平措卓瑪さんが差し出した皺だらけの右手は、中指の関節が異様に盛り上がっていた。「あいつらが棒で打ったんですよ!」。半世紀以上経った今も、心が安らぐことはない。「お腹が減って仕事をする力がないと、殴られるんです!」。

1959年に西蔵で民主改革が実施されると、一家はヤク1頭と穀物4袋、そして何よりも大切なことに、生まれて初めて自分の土地を与えられたのだ!それからは、日に日に暮らしが良くなっていった。

整ったセメント舗装、美しい蔵式工芸の花、精緻な彫刻が施された梁。平措卓瑪さんの現在の家は、清潔な蔵式住居だ。家の変遷に話が及ぶと、平措卓瑪さんは堰を切ったように語りだした。農奴時代は、母と2人で石造りの掘っ立て小屋に住んでいた。「冬は風が吹き込むし、夏は雨が漏るし、外など見ることはできませんでした」。後に土レンガ造りの家に移り、2006年には政府の住環境改善事業で、現在の住居に移ることができた。「政府は2万 9000元も補助してくれたんですよ!」。

貧しい老夫婦は農村最低生活保障に加入し、半年に1回、1人月20元分の補助金を給付されている。老夫婦が住む東棟には、民政部門からの贈り物があった。磚茶はまだ一塊半、米も1袋未開封のまま置かれていた。これらはみな、蔵暦(チベット暦)の新年に民政部門が贈ってくれたものだ。(編集NA)

「人民網日本語版」2008年4月15日



旧チベットの農奴の今と昔


記事の魚拓

今年74歳になる米瑪頓珠さんはかつて、パ拉庄園で農奴として11年間働いていた。家族は天井が低く、暗い、湿った一間の土造で暮らし、自由もなく、食べる物も十分になかった。1959年の民主改革によって西蔵(チベット)にいた100万人の農奴は初めて人としての権利を手に入れ、自分の土地や家畜を持つことができるようになった。現在、米瑪頓珠さんは子や孫に恵まれ、400平米以上ある2階建ての家に住み、平和で恵まれた新しい生活を送っている。パ拉庄園は西蔵で唯一、当時の様子がほぼ完全に残る封建農奴制の領主の庄園で、平和解放前、西蔵に37カ所の地方庄園と3千人以上の農奴を所有していたという。(編集KA)

※パ拉庄園のパは「巾」の右に「白」

「人民網日本語版」2008年4月24日



チベットの女性活仏、改革開放以来のチベットを評価


記事の魚拓

2008-04-30 15:45:18 cri

チベット唯一の女性の活仏サンテン・ドルジェ・ハモさんはこのほど、記者のインタビューに答え、「チベットの平和解放と民主化改革はそれまでの農奴制を廃除した。特に改革開放以来、チベットは非常に大きな変化を見せた」と述べました。

サンテン・ドルジェ・ハモさんは、「農民と牧畜民が、安全で住みやすい家に暮らし、きれいな水を飲み、広くて平らな道を歩くことができるようにするため、国は多くの資金を投入して新しい農村作りのプロジェクトを実施し、農民と牧畜民は、改革がもたらした成果を十分に享受している」と述べました。

サンテン・ドルジェ・ハモさんはまた、「3月14日、ダライ・ラマ勢力の画策で、一部の僧侶と少数の者が、ラサで暴動を起こした。これは仏教の基本的な教義と戒律にひどく背き、チベット仏教の正常な秩序と良好な名声を損なった」と語りました。(翻訳:玉華)



元農奴が語る今と昔――飢えの苦しみ、殴打から農地に酔い倒れるほどの幸せ


記事の魚拓

シガツェ(日喀則)地区にあるパイラ(帕拉)荘園は、チベットで最も完全な形で残る奴隷領主の荘園である。ここで、過去の領主が私設した監獄や多種にわたる刑具、農奴の住まいなどが今でも目にすることができ、旧チベットの縮図だといわれる。

当時農奴だった一部の人は今でもこの荘園の付近に住んでいる。今年75歳になるミマドンジュさんの家は壁一つ隔てて、悲惨な経験をしたパイラ荘園と向き合っている。「そこはこの世の地獄、まさに別の世界だ」

振り返るのが耐え難い生活

ミマドンジュさんと妻はかつて農奴で、夫は荘園で衣服の仕立人、妻は使用人をしていた。

二人がかつて住んでいたのは、荘園の中の7平方メートル余りの小屋だった。「暗くひんやりして、昼間でも物ははっきり見えなかった」。地面に土を盛って“ベッド”を2つ作り、住むこと11年。娘が生まれると、3人は狭い小屋で肩を寄せ合い、ぼろぼろになった2枚の羊の皮で温まり、寝た。お腹は満たされず、着る物も寒さをしのげず、これがミマドンジュさん一家の普段の生活だった。農奴の食物は毎月、わずか2.5−30キログラムのハダカムギだけ。一家は計画を立てて食物を口にし、ひもじければ、水を飲んだ。

旧チベットでは、領主が仕置場を私設して、農奴を殴ったり、危害を加えたりすることは日常茶飯事だった。ミマドンジュさん夫婦も幾度となく殴られた。妻はある日、荘園主の夫人の世話にあたっていた時、不注意でグラスを割ってしまい、目付け役に皮の鞭で顔をしたたかに打たれたことがある。

幸せで農地に酔いつぶれる

チベットでは1956年、各地で相次いで民主革命が行われ、数多くの農奴が人身の自由を束縛していた足かせから抜け出し、生産・生活手段を手にし、真に解放されて主人となった。

ミマドンジュさん今でも記憶している。59年秋の豊作時、畑はハダカムギが立派に生長していた。この年、パイラ荘園の土地・財産を分配する大会が開かれ、全郷(村)から500人余りが参加した。

一人あたり7畝(1畝=15分の1ヘクタール)の規定に沿って、ミマドンジュさんには一家3人分として21畝の土地が分け与えられた。このほか、およそ168キログラムの穀物や掛け布団、衣料品などの生活用品が配分された。

土地の配分は、当時最も公平だとされる方式で行われた。すべての土地を区画して番号をふり、担当者が小さな紙にその番号を書き、それを丸めて帽子の中に入れる。そして、地元の住民が帽子の中にある紙をつかみとる。そうすることで、住民は自分の土地がどこにあるかを知り、自分の土地に、名前と畝数を明記した木製の札を掲げるという仕組みだ。

一枚の紙、一つの札、最も簡単な民主形式がチベットの歴史に新たな一頁を切り開いた。

「土地を分け与えられて、みんな喜んだ。30人の農奴の仲間が青稞酒(ハダカムギで作った酒)を求めに来た。ここに座り、酒を飲みながら祝った。その日の午後はみんなが至極の酒を飲み、最後には農地に酔い倒れたものだ」

新生活では選択する権利が

ミマドンジュさん言う。「農奴には人身の自由はなく、荘園主の絶対的支配下にあった。自分だけでなく、孫の世代さえも一生うだつが上がらなかった。土地と財産が分与されてからは、自分が努力しさえすれば、よい生活が送れることがわかった」

2000年、ミマドンジュさんは政府の助成を受けて乳牛を購入し、牛飼育の専業農家になった。4頭いる乳牛による純年収は5000元。牛舎の建設でも政府の支援を受けた。

現在、33畝の土地を持ち、優良品種のハダカムギを普及させているところだ。1畝あたりの年間生産量は350キログラム。

「今ではコメなどの穀物が十分あるし、食べきれないほどだ。もうすこし長生きして、もう少し今の生活を味わいたい。昔はかなり苦しかったからね」とミヤドンジュさん。

「チャイナネット」2009年3月3日



バジェさん、自分も人であることを知らなかった


記事の魚拓

チベット南部の乃東(ネドン)県昌珠鎮凱松住民委員会はチベットで最初に民主改革を行った村である。50年前の春に、凱松荘園の400人あまりの農奴はチベット初の農民協会を成立した。封建的農奴制度を切り崩した民主改革はこの小さな村から幕を開けたのであった。

「農奴解放記念日のことを耳にして、旧社会を経験した我々は非常に嬉しい。現在、旧社会を経験した人はますます少なくなってきているが、決してその歴史を忘れてはいけない」とバジェさんは語った。バジェさんの両親は農奴であり、1953年、彼女は牛舎で生まれた。彼女は民主改革まで6年の農奴生活を送り、その幼少時代の苦痛は今でもしっかり覚えている。

バジェさんは新旧の社会を比較して次のように語った。

農奴主が犬にエサをやる時、私たちは囲い込むように近寄り、農奴主がツォンバを地に投げ捨てれば、私たちはすぐに駆け寄り犬と争って食べ、砂や土ごとに飲み込んだ。犬にかまれたことも度々あった。当時、私たちは自分が人間であることを知らなかった。農奴主はいつも畜生をたたくように私たちを殴った。あるとき祖父は理由もなく乱暴に殴られ、右肩胛骨を折り、一生障害が残った。

現在の生活は毎年4万元の現金収入があり、このような収入は村の中でも中の上くらいである。手元のお金が多くなれば、生活レベルも向上する。バジェさんの8人家族は300平米の二階建てに住んでおり、屋上には大きい太陽光湯沸かし器があり、家族全員が毎日入浴できる。客間の柱と家具にはチベット風絵画が描かれて大変目を引く。バジェさんは部屋の中の3本の柱を指差して、「昔の農奴主でもこのような三本柱の部屋に住んでいた者はそんなに多くなかった」と語った。

「チャイナネット」2009/03/10



チュヅァさん:昔の生活に二度と戻りたくない


記事の魚拓

今年66歳のチュヅァさんは幼少時代の生活をはっきり覚えている。彼は「二度と昔に戻りたくないし、現在の安定した幸せな生活を壊すものは許さない」と話している。チュヅァさんはかつて農奴主の家僕だった。

彼は、「私は新旧二つの社会を経験してきたが、民主改革後に私と農奴、奴隷は人身の自由を獲得し幸せな生活を送れるようになった」と語った。

「私の母は奴隷で、私と妹、兄もその家の奴隷となった。幼少時代に母は執事に鎌で殺されたので、父は私たち三人兄弟をつれて乞食の生活を送り、12歳の時に兄と一緒に他人の牛と羊を放牧するようになった」と語る。その後、人の助けのもと奴隷主の荘園を逃げ出し、テープン寺に来てやはり乞食の生活を送ったという。

現在チュヅァさんは定年退職した幹部となり、自分の貯金でラサに立派な別荘を建てた。客間には彫刻入りの綺麗なチベット風の机が置かれ、液晶テレビ、冷蔵庫、クーラーなど家電製品が揃っている。

「チャイナネット」2009年3月10日



「厳寒を乗り越えた人は太陽の暖かみが分かる」


記事の魚拓

57歳のニマさんは民主改革前には荘園主の農奴で、毎日を怯えながら過ごしていた。父は荘園主のために羊を放牧していた。ある日、一匹の羊が田に入ったため、父は荘園主に木に丸一昼夜吊らされた。父の体調がずっと悪かったため解放軍は病院に連れて行き、やっと治療や手当てを受けることができたのだという。

「民主改革の時、5人家族の我が家は20ムー(15ムーは1ヘクタール)、9部屋の屋敷、一頭の牛、一本のプラウを獲得した」ニマさんは当時の光景をはっきり覚えている。

1999年、ニマさんは村民委員会主任となり、村の人々を率いて土地の整備を行い、野菜の栽培と黄牛の種の改良に力を入れ、村民の都会への出稼ぎを奨励した。現在、村民たちの収入は増加し、一人当たりの現金収入は7000元を超え、51世帯のうち45世帯が新居を建てた。近年の中央のチベット自治区に対するインフラ整備強化につれ、ニマさんの家は2台の建設工事専用車を購入し、昨年の収入は26万元に達した。またニマさんは四川省の地震被災地に5万元を義捐した。

「厳寒を経験した者は最も太陽の暖かみを感じ取れる。裕福な生活を送っている私は永遠に党と政府の恩を忘れられない」とニマさんは語っている。

「チャイナネット」2009年3月10日



農奴から俳優へと人生を変えた3度の逃亡


記事の魚拓

チベット自治区の現代劇の元団長だった今年77歳になるワン・トイさんは、寺院、農場、内陸へと、旧チベットの地獄のような農奴制度から3度逃げ出した経験がある。

映画『農奴』の主役と同じ経歴

ワン・トイさんがチベットをテーマにした中国初の映画『農奴』に出演したのは、上海戯劇学院を卒業して1年余りが経った30歳の時だ。

1963年に「八一映画制作所」が製作した『農奴』は、旧チベットの農奴の悲惨な生活を描いた作品で、1981年にはマニラ国際映画祭で受賞している。

この映画の李俊監督が、『農奴』の主人公のチャンパ役にワン・トイさんを選んだのは、農奴主を憎む彼の激しい目だった。それにワン・トイさんの経歴は、出家して僧侶になり共産党のおかげで自由に話すことができるようになったチャンパと非常によく似ていた。

搾取されて抑圧を受ける生活

ワン・トイさんの祖先は、ラサのツジャオリン寺院の荘園に属し、ワン・トイさんも生まれながらの農奴だった。今でも子どもの時に、年末になると食糧やウシ、ヒツジなど、ほとんど全ての物が借金のかたに取られ、それでも借金は増えるばかりだったことをよく覚えている。

「借金から逃れるために一家全員で逃げ出しました。しかしどこに行っても搾取、抑圧されて生活は苦しく、仕方なくもとの家に戻りましたが、住んでいたあばら家は農奴主に没収され、家族は分かれて親戚の家に間借りするよりしかたがありませんでした」

荘園でウシやヒツジの放牧をさせられいつも空腹だった13歳の頃、誰かがお正月前に鬼を払うために捨てた供え物を耐え切れず拾って食べたこともあるという。

農場での楽しい日々

ワン・トイさんが20歳になった年、荘園の主人は農奴に3日間の休みを与え、ラサで行われる公演に行かせるという、またとないチャンスが訪れた。ワン・トイさんは危険を冒して筏でラサ川を渡りセラ寺に逃げ込んだ。

生活は相変わらず苦しかった。それに当時の僧侶は等級があり、ワン・トイさんは毎日掃除をする一番低いレベルの僧侶で、勉強する機会もなく、厳しい師匠からは懲らしめられいつも殴られてばかりいた。

寺院の生活に失望したワン・トイさんは、袈裟を脱ぎ命をかけて寺院から農場へ。そこでは解放軍の戦士が馬車の走らせ方を手取り足取りワン・トイさんに教えた。「農場にいた時はいじめられることもなく、お腹いっぱい食べられ、着るものも十分にあり、私にとってはとても楽しい日々でした」が、ワン・トイさんには気がかりなことがあった。

チベットが平和解放されたのは1951年。しかし農奴制度はまだ残っており、いつ農奴主が捕まえに来るか分からない。ワン・トイさんの領主がいる寺院は、農場の隣のラサ川のほとりにあった。

新しいチベット

26歳になったワン・トイさんは、1958年に陝西省咸陽市にあるチベット公学(現在のチベット民族学院)で勉強する機会を得る。農奴主が内地まで捕まえに来ることはできないだろうと考えたワン・トイさんの3度目の逃亡だ。

1959年、ラジオからはチベットでは民主改革が行われ、100万人の農奴が解放されたという情報が流れてきた。これからは逃げ出さなくてもいい、再び怖がらなくてもいい…。心の底からホッとしたワン・トイさんはその時29歳。チベットでは天地を覆す大きな変化が起った。

「チャイナネット」2009年3月12日



チベット族の牧畜民:新旧社会の大きな違い


記事の魚拓

――ルオサンツレンさん。男性、チベット族。1936年、ナチュ(那曲)の牧畜奴隷の家庭に生まれる。現在、チベット自治区ナチュ県で牧畜民として暮らす。

おれの実家はチベットのチャンドゥディンチン県だ。おやじは部落の頭目の搾取と抑圧に我慢できず、チベット旧政府が割り当てたいろんな過酷な寄付や雑税を納めことができなかったから、故郷を追われ、ナチュに流れて、宿駅や牧畜主のために靴をつくったり、着るものを縫ったりして、なんとかその日を送っていた。その後、貧しい牧畜民の女性と結婚して、男女7人の子を産んだ。この苦しい家庭を守ろうと、おやじは昔と同じように靴や着るものをつくり、おふくろは牛の糞を拾ったり、宿駅や牧畜主のためにハダカムギの団子をつくったりして、ごくわずかな収入を得ていた。いろいろ倹約して貯めた金で、ナチュで小さな家を買った。9人の大所帯。満足に食べられることはなかった。冬が来るとなおのこと、飢えと寒さで、その苦労は言い難い。飢えと病魔にさいなまれて、次々に兄弟、姉妹5人が命を奪われた。残ったのは姉1人だ。

8歳の時、生活の必要から、おやじは家を8頭のヤギとテントと交換して、牧畜村に移って生活するようになった。その年、雪害に遭い、ヤギ8頭はぜんぶ死んでしまった。生計に迫られ、おやじはまた寺院の高利の借金に頼らざるを得なくなり、チベット政府はわが家をゴドリン(功徳林)寺の属民にし、毎年、政府に7.5キロの酥油(スーヨウ・牛・羊の乳でつくったバター)を納めることになった。納められなければ、債務の肩代わりにさまざまな苦役が課せられた。おやじは病と疲れから体調を崩し、ある雪の舞う夜、他界した。45歳だった。おれはその時、13歳だ。おやじが逝ってからは、頭目や牧畜主の使用人になり、放牧し、生涯払えない債務を引き継ぎ、牛馬にも劣る生活を送ってきた。

1959年、一家はようやく解放されて、国の主人となった。民主改革で、寺や廟、頭目や牧畜主によって強いられてきたいろんな高利貸しや雑税はぜんぶなくなり、12頭の乳牛も戻ってきた。生活がだんだん良くなってきたのは、この時からだ。金もできたし、食べることも、着ることも心配なくなった。30頭の牛に40頭の綿羊、10頭のヤギを買い、幸せで何の心配もない生活を送れるようになった。1年後、党と政府は姉を内地の西藏公学(現在のチベット民族学院)で勉強させてくれた。3年後に戻り、ナチュ地区の婦女連合会の幹部になり、その後に連合会の主任になった。おれもおふくろも心落ち着いた生活を送ることができたが、おふくろは87歳でこの世を去った。

この数年は、改革開放政策のおかげで、わが家の生活は前よりずっと良くなった。一家5人、牛は78頭、綿羊は160頭、ヤギは78頭、純収入は毎年1万元以上になる。5つの部屋がある家を新築して、風力発電機もつけた。高級な洋服、金銀の宝飾、高級なチベット式家具、高級なステレオ、テレビと、必要なものは何でもあるし、預貯金もある。

いま、生活はすごく安定している。1年を通じてヨーグルトや肉を口にできるし、テレビを通して外の大きな世界が分かるし、天国にいるような生活を送っている。本当に新しい社会と旧い社会の大きな違いだ。いまのようなすばらし生活は、旧社会では、夢にすら思えなかった。けど、おれの家のような生活水準は、この村では普通の方だ。もっと裕福なものもいる。

「チャイナネット」2009年3月18日



チベット民主改革で百万人の農奴が解放された


記事の魚拓

2009-03-21 21:52:23 cri

チベット自治区文化保護と発展協会の名誉会長、第十回全国人民代表大会常務委員会のライディ副委員長(副議長に当たる)は20日マカオでインタビューを受けた際、「チベットの民主改革が50年間行われてきたが、最も感慨深く思うのは、まさに百万人の農奴が解放されたことである」と述べました。

これはラィディ氏がマカオで行われたチベット無形文化遺産展示会の開幕式に出席した際述べたものです。

ライディ氏は1938年に、チベット那曲地区の比如県の貧しい牧畜民の息子として生まれました。幼いころから、母親に連れられて、浮浪者としての毎日を過ごしていました。1959年に始まったチベットの民主改革を50年間自ら経験したライディ氏は、まさにチベットの変化をその目で見てきたと言えます。

「50年間の民主改革を最も感慨深く思ったことは何ですか」という質問に、ライディ氏は、「旧チベットの農奴は、十分に食べ、十分に着ることができず、人身の自由もなかった。中国共産党が来てから、こんな歌が伝わっていた。『ヒマラヤ山がどんなに高くても頂がある。ヤルツァンボ江がどんなに長くても源がある。チベット族の人々がどんなに悲しい生活を過ごしていてもいつか楽しい生活が始まる。共産党のおかげで、悲しい生活が楽しくなる』。この時以来、チベットの農奴は解放されて、チベット人が主人になった。この歌詞は本当に意味深い」と述べました。

今年はチベット民主改革50周年です。3月28日は、チベット人にとって歴史的にも現実的にも特別で重大な祝日です。1959年3月10日、チベットの農奴主階層は政教一体の封建農奴制社会の崩壊を阻止するため、帝国主義の支持と扇動を受けて、無謀な暴動を起こしました。同年3月17日、ダライ・ラマ14世とその信徒たちが海外に逃亡しました。3月28日、当時の周恩来首相は国務院令を公布し、チベット地方政府のかわりにチベット自治区準備委員会が地方政権を握り、暴動を治めながら、民主改革を展開し、政教一体の封建農奴制を取り壊すと発表して、チベットの百万人の農奴と奴隷を解放したと世界に向けて宣言しました。チベット自治区人民代表大会は今年1月19日に、チベット各界の要求に応えて、歴史を忘れないよう、毎年の3月28日をチベット百万の農奴の解放記念日に指定しました。

ライディ氏は、民主改革によってチベット社会の生産力が解放されたとし、「私の故郷は牧場である。59年前、牧畜民がヤクを追いやって3、4ヶ月も歩いていてラサの定期市にたどり着いた。今は車で2日で日帰りできる。通信も便利になった。今の牧畜民、みんな携帯電話を持っている。放牧している時、よく電話をかけあう。『お宅の牛の飼料はどうなっているか』とかちょっとくだらないことを気軽に聞く。昔は、携帯電話を見たこともなかったよ。本当に変化が大きい」と述べました。

「チベットの発展ぶりをどう見ているか」という質問に、ライディ氏は、「チベットを発展させるには、科学技術と文化が不可欠である。人材があれば、チベットの事業発展を推し進めることができる」と述べ、さらに「今のチベット人には、博士も大学院生もいる。昔はいなかった。チベットを発展させるため、科学技術と教育に取り組む必要がある。チベットの教育事業に、党中央と中央政府が力を入れている。より多くの人材を育成すれば、チベットの経済は成長し、社会も進歩するだろう」と述べました。(翻訳:KH)



「言葉が話せる家畜」から土地をもつ自由な人間に


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新中国最初のチベット族の博士のゲレェさんを訪ねて

50数年前、貴族の家の炊事場から客間に通じる廊下で震えていたまだ幼いゲレェさんは、母親とともにここで一生働かなければならないのだと思い、その後、新中国で最初のチベット族の博士になるとは思ってもいらなかった。というのは、幼い頃から、良い生活をする願いは「来世のことよ」と教えられてきたからだ。

現在、中国チベット学研究センターで、副総幹事をつとめているゲレェさんは、かつて三回もダライラマの個人代表と座談したことがある。また、数多くの都市で博士課程の学生たちを指導し、何回も外国へ学術交流に赴ったことがある。

ゲレェさんの家は四川省ガンズェ(甘孜)チベット族自治州にあり、1956年に民主改革が行われていた。「民主改革がなければ、わたしはいまだに農奴のままであっただろう」と彼は言う。

「言葉が話せる家畜」から土地をもつ自由な人間に

ゲレェさんは1950年に四川省ガンズェ・チベット族自治州ガンズェ県のある村に生まれ、今でも自分の誕生日はいつなのか分からない。母と姉は領主の財産としてもう一人の領主に贈り、ゲレェさんは生まれたときから父親と一度も会ったことがなかった。

「わたしたちは農奴の中では最低の層に属し、身につけている服のほか何もない。一家は貴族の炊事場と客間の間の廊下に寝泊まりし、昼間に着ているチベット族の服を夜は布団としていた。代々貴族のために働き、『言葉が話せる家畜』と見なされていた」と言うゲレェさん。

幼いころのゲレェさんの意識には、この世には鬼神や寺院、農奴の働きがあるほか何もないと思っていた。「生まれてからそのように仕つけられたので、幸せな生活を来世のことと考えるしかできなかった」と彼は語る。

1956年、地元の農奴たちは初めて自分の土地と家を持つようになった。チベットの伝統的な社会ではこれらのものはもっとも大切な財産であった。土地がなければ財産がないのと同じことで、発言権もなく、社会的地位もないこととなった。

「長年チベットの農奴であった人たちは初めて自分の土地をもつようになり、当時の農奴たちはまだズボンもなく、衣服がボロボロであったにもかかわらず、みんなは欣喜雀躍して心の底から喜んでいた」とゲレェさんは語る。

ゲレェさん一家が分配された家屋は地元のある中等貴族の家から没収したもので、そこに寝泊まりした最初の夜、一家はみんな一睡できなかった。「内装を一新したばかりの新しい部屋は、窓ガラスもちゃんとついていて、明かりをつけると自分の姿がガラスに映るので、とても珍しく、不思議であった。ある倉庫にはまだバターのミルクの残りカスが少し残っていたので、みんなそれをつまんで食べた。それまでこんなに美味しい物を食べたことがなかったのだ」とゲレェさんは語る。

30のチベット文字の字母から40万字の博士論文へ

ゲレェさんは、自分の社会的地位を変えるにはラマになるしかないと以前は思っていた。母親のたっての願いで、5歳のゲレェさんは領主の読経堂で大鼓を打ち鳴らし祈祷することを許された。そこで彼は経典を読むラマたちについて仏教の経典を勉強することができた。「わたしの勉強は一家の働きを代価として取り換えたものなのだ」と言うゲレェさん。

「紙と筆もなく、壁に穴を開け、光が穴から射してくると勉強が始まる。ラマたちについて読経するだけで、意味は分からないままであったが、読み間違ったら殴られるのだった」と。こうして半年後にゲレェ君はチベット文字の30の字母を覚えた。

1956年、政府は地元で小学校を開設し、ゲレェ君はやっと学校でチベット語と漢語を勉強することができるようになった。「それ以後人類とは何か、地球とは何かを知り、また天安門を知ることになった」というゲレェさん。

ゲレェさんは、小学校から学費を払ったことがなく、国が食費を支給してくれたばかりか、衣服さえ与えてくれ、中学校に入ると、三年間連続で一等奨学金を獲得していた、と言う。

1964年、中学校を卒業したゲレェさんは成都にある西南民族大学の中等専門クラスに入学した。四年後、「チベット語翻訳専攻」のクラスを卒業し、故郷のガンズェチベット族自治州に戻って仕事をすることになった。1978年に中国社会科学院の民族研究所に入所し、少数民族、特にチベット族の社会と歴史を研究することになった。

1986年にゲレェさんは博士論文を書き上げ、しかも中山大学の人類学学部での答弁がスムーズに認められ、新中国で養成した最初の人類学博士となり、そして最初のチベット族出身の博士となった。彼は北京で中国初のチベット学研究センター設立の企画と建設の作業に参加した。

ダライラマの兄との論争

1988年から89年までに、ゲレェさんは前後として、アメリカのインディアナ大学とカリフォルニア大学ロサンゼルス校に客員教授として招かれた。その間、彼はダライラマの兄、アメリカのある大学で教授となっていたジンメイトゥプテン・ノオブ氏と出会い、激しい論争をした。

「ダライラマの兄は、チベット族と漢族は水と火のような関係にあり相入りないのだと言ったのに対して、わたしは、悪人と善人は民族で分けるのではなく、どの民族にも善人もいれば悪人もいる。一つの民族がすべて悪人、一つの民族がすべて善人だというのはなぜか、と言い返した。彼は返す言葉がなかった」とゲレェさんは語る。

「民主改革以前、わが家の人々は農奴で、ダライの兄は生き仏だった。農奴のすることは働き、物を運び、種をまき、取り入れをすることのみで、ほかのことをするのは絶対に許されなかった。しかし、今ではわたしは中華人民共和国の学者として、学術交流活動のために、アメリカのアカデミー院に招かれる身分である」

「民主改革がなければ、ダライの兄と対等の資格で論争することはどうしてもできなかっただろう。わたしは大きな自信と誇りを持っている」とゲレェさんは言う。

現在、ゲレェさんは毎年チベット族の地域へ調査や研究に赴いている。「どのように『持続可能な発展』という理論をチベットに生かし、チベットの文化と環境を損なわないという前提条件の下で経済を発展させ、すばらしい現代化のチベットを建設するかは、研究に値する課題だと思う」と彼は語った。

2008年7月にゲレェさんは学者としてダライの個人代表と座談し、彼らに建設中の中国で最初の国家クラスのチベット族文化博物館について紹介した。この博物館は北京にあり、やがて竣工するが、2000点以上の珍しい文物がみんなの前に展示されることになっている。博物館の展示テーマは「チベット――あこがれの地」である。

「チャイナネット」2009年3月23日



チベットの民主改革、人々の政治参与の権利を保障


記事の魚拓

2009-03-23 16:49:56 cri

チベットは、まもなく初めての百万の農奴解放記念日を迎えますが、これに先立ってCRI・中国国際放送局の記者団がチベット入りし、チベットの政治、経済、文化と人々の生活や社会の発展における新しい変化を取材しました。そこで今日のこの時間は、チベットの民主改革というシリーズの1回目で「チベットの民主改革、人々の政治参与の権利を保障」というリポートをご紹介しましょう。

ラサ市民のニマツェリンさんは、今年76歳、農奴制度時代をすごし、民主改革後のチベットで暮らし、今の生活を大切にしています。50年前の封建農奴制度の下で、ニマツェリンさんは作男をしていました。当時の暮らしについて、ニマツェリンさんは、「当時は、着るもの、食べるもの、そして住むところもいずれもひどく、とてもつらかった。1日3食だといっても、量がぜんぜん足らず、年中、空腹に苛まれていた。着る服といっても一着しかなく、靴などはなかった。特に冬になると、つらくて大変だった。地主に抑えられ、自由なんてとんでもない」と話していました。

50年前のチベットで、人口の95%を占めていた農奴は生産手段を一切持っていませんでしたし、人身の自由と政治的地位はいうまでもありません。

1959年の3月、チベットの地主たちは、叛乱を起こしましたが、中央政府とチベットの人々はこの叛乱を鎮圧したのです。これと同時に、民主的な改革が行われ、それまで農奴だった人たちは、主人公としてチベットを管理する権利を得ることが出来ました。農奴たちの生命と人身の自由も新中国の憲法と法律によって保護されるようになったのです。そして民主改革を通じて、地主の18万ヘクタールあまりの土地が、約20万世帯、80万の農奴に与えられたのです。

ところで政治の面からいうと、中央政府はチベットで民族地域自治制度を徐々に実施し、1961年には住民に選挙権を与えました。こうして人々は選挙を通じて各レベル政府の責任者を選んだのです。

1965年、チベットでは初めての人民代表大会が開催されチベット自治区人民政府が成立しました。これは、民族地域自治制度のチベットでの実施を意味しています。この制度は、チベット族を主とする少数民族が政治に参与する権利を保障しています。現在、チベットでは、34000人の人民代表のうち、チベット族とその他少数民族の代表が94%を占めています。チベット自治区の各レベルの政府と人民代表大会の主な責任者もチベット族などの少数民族の出身者が担当しています。

民主的改革が行われてから、チベットの経済、文化、社会とインフラ整備などの分野では大きな変化が起こりました。チベットの商業、観光業、郵便業、IT産業はゼロから発展してきました。そして昔は道路が一本もなかったチベットで、いま四方八方に通じる交通網が出来ていて、2007年には、青海チベット鉄道が開通したことにより、チベットに鉄道がなかったという歴史に終止符が打たれたのです。

チベットの近代化に伴い、人々の生活レベルは絶えず向上しています。農民と牧畜民は、昔、年収ゼロという状態でしたが、いまでは平均3100元も入り、一人当たりの寿命は1950年代の35.5歳から現在の67歳に上がったのです。これについて、チベット社会科学院のケルザング・イェシ研究員は「民主改革という制度が実施されなければ、チベットでは、今日のように天地を覆す変化は起こるはずがない」と話しています。



ラサ哲蚌寺の僧侶、チベット民主改革を語る


記事の魚拓

2009-03-26 13:36:08 cri

ラサの三大寺院の一つ哲蚌寺(デブン寺)の僧侶数十人が25日座談会を開き、チベットの民主改革50周年とチベット百万の農奴解放記念日にちなんで座談会を開きました。

18年前に出家し哲蚌寺にきたガワン・チョジン師(46歳)は「民主改革が実施されて以来、チベットは、目を見張る変化を遂げた。しかし、分裂主義者は旧い封建農奴制度の回復を企み、いわゆるチベット問題なるものを鼓吹し、チベットの発展を阻もうとしている。いわゆるチベット問題とは民族問題でも宗教問題でも人権問題でもなく、中国の発展を阻止し、中国のイメージを損なおうとする反中国勢力のでたらめな構想だ」と指摘しました。

また、ガワン・チョドラク師は「チベットは、いま歴史上最もよい時期にある。われわれは今日の成果を大切にしなければならないし、宗教界のイメージアップを図り、社会の安定や民族の団結に貢献していきたい」と語りました。(翻訳:コオリ)



かつての農奴、開放記念日について語る


記事の魚拓

2009-03-28 14:38:20 cri

チベットの百万農奴解放記念日祝賀大会が28日、中心地ラサで開催されましたが、今年69歳のかつての農奴ズウェンズさんは、「開放記念日を定めたことは、私たち百万の農奴の心情を表しており、両手を上げてこれに賛同する」と述べました。

ズウェンズさんは「1959年に封建農奴制度という暗黒な支配が覆され、百万の農奴と奴隷は解放された。それから50年、ふるさとには大きな変化が現れ、庶民の暮らしはよくなる一方だ。しかし、ダライ・ラマグループは祖国を裏切り、中国の統一と民族の連携を破壊する活動に走ってきた。ダライ・ラマグループの祖国を分裂させ、今の幸せを踏みにじろうとする企みに私たちは断固反対する」と語りました。



ラサ・ガバ村村民、百万農奴解放50周年を祝う


記事の魚拓

初めての「チベット百万農奴解放記念日」を祝うため、28日午前、ラサ市中心のポタラ宮前広場で記念大会が行われた。ラサ市の東部20キロの郊外にあるガナ郷ガバ村の村人は、テレビで記念大会の生中継を見た後家を出て、華やかなチベットの民族衣装を着て楽しい踊りを踊りはじめた。

農奴だったツアンジョグさん(66歳)は、「1959年の3月28日、自由を得た。今、政府の住居保障プロジェクトや、農民を扶助する一連の優遇政策により、昔では考えられなかった幸せな生活ができるようになった。3月28日は、私にとって祝うべき嬉しい日なので、最も美しい歌声と最も軽やかなダンスで、この日を祝いたい」と語っていた。

「中国国際放送局 日本語部」より 2009年3月29日



ドンジュツォーマの幸せな生活


記事の魚拓

2009-09-04 15:21:49 cri

中国南の雲南省迪慶チベット族自治州の州都シャングリラ県政府の前広場は、毎日の夜、非常ににぎやかです。周辺の住民は夕食の後、ここに集まり、「鍋庄踊り」を踊ります。鍋庄踊りはチベット族の特徴を持つ集団舞踊です。男女老若は音楽に乗って踊り、楽しい雰囲気に包まれ、人々の顔は微笑でいます。ドンジュツォーマ(顿珠卓玛)さんはその中の一人です。

ドンジュツォーマ(顿珠卓玛)さんは、シャングリラ県建塘鎮諾西村のチベット族出身の住民で、今年66歳で、踊りがすきです。今の生活について、ドンジュツォーマさんはニコニコしながら、「新旧社会を体験し、今の生活を大切にしている。小さいときのことを振りかえて見ると、旧社会の苦しい生活ぶりがありありと目の前に浮かんできます」と話しました。彼女は7、8歳の時、きつい畑仕事をやるようになりました。しかし、収穫した食糧は全部農奴主に奪い取られていました。衣食住も問題となり、住むところは小さくて、汚く、まったく豚小屋のようでした。チベット平和開放後、天地を覆すような変化が起きました。特に改革開放後、生活が一層改善されました。豚や牛などの飼育、農作物の栽培に政府は補助金を与えているほか、60歳以上のお年寄りも手当てをもらえ、世話を受けています。

現在、生活が豊かになりました。ドンジュツォーマさんは家の客間の中央に神棚を置き、それに10世パンチェン・オルドニと今は亡き毛沢東主席の写真を供え、上に吉祥を象徴するチベットのハーダを飾っており、線香の煙が間断なく立ち上がっています。多くのチベットの家でもこのような神棚が供えています。ドンジュツォーマさんは、「チベットの人々は毛主席と共産党の指導の下で、解放され、幸せな生活を送れるようになりました。毛主席はチベットの活仏と同じように崇高な地位にあります。われわれは毛主席を心から感謝します。毎日も神棚の前で、生活がもっともすばらしくなるよう祈っています」と話しました。(翻訳:トウエンカ)



チベット、百万農奴解放記念日を祝う


記事の魚拓

2010-03-29 13:31:20 cri

3月28日は「チベット百万農奴解放記念日」にあたりますが、この日の午前、ラサのポタラ宮広場では、チベット各界から3000人以上の人々が集まり、国旗掲揚式が行なわれました。また、チベット各地でも様々な記念イベントがありました。

51年前の1959年3月28日、チベットで民主改革が行われ、それまでの「政教統一」という封建農奴制度が廃止され、百万もの農奴と奴隷が人身の自由を得て、土地を与えられ、法律に定められた政治権利を享受できるようになりました。そしてチベットの民主改革の実施を記念するため、2009年の1月に開かれたチベット自治区第9期人民代表大会第2回会議で、毎年の3月28日を「チベット百万農奴解放記念日」にする議案が可決されました。ですから今年は二回目の記念日なのです。

28日の午前、ラサ市共産党委員会の秦宜智書記がプタラ宮広場での記念式典で挨拶し、「昔のチベットのラサの面積は3平方キロ足らずで、人口はわずか2万人だった。設備の整った学校は一つもなく、95%以上の人は読み書きができなかった。もちろん医療衛生条件は悪く、人々の平均寿命は35.5歳だった。しかし民主改革後の51年にラサ市の諸事業は著しく発展しており、これは奇跡といえる」と述べた後、

「いま、ラサ市の人口は45万人で、面積は50平方キロとなった。幼稚園教育、義務教育、中等教育、高等教育、職業教育と特殊教育などを含む現代化した民族教育システムが出来上がり、小中学校と高校での農牧民の生徒の食事や宿泊、それに学費はすべて政府が負担している。小学校の進学率は99.4%に、中学校は99.5%に達した。また、ラサには462ヵ所の医療衛生機関があり、農牧地区では無料の医療サービス制度が実施され。人々の平均寿命は67歳になった」と話しました。

ラサ市政治協商会議のラハゾング(Lhazong Drolkar)副議長は1940年代に生まれました。昔のチベットについてラハゾングさんは、「当時、チベットでは至る所にお寺があったが、宗教信仰の自由はなかった。お寺に入ってラマ僧になるには役人の許可を得なければならず、今のような自由はない。また、お寺ではトップのラマ僧以外すべてのラマは奴隷のような暮らしをしていて、いつも空腹に悩まされていた。私は昔のチベットを経験しているので、いまのチベットの幸せを何よりも大切にしている」と語りました。

昔のチベットでは、女性は社会のどん底に置かれ、人身の自由がないどころか、人間として扱われませんでした。これについて、チベット社会科学院のチャンジドルマ(Cangjor Drolma)研究員は、「昔、チベットの女性は教育を受けるどころか、農奴主の前では頭を上げてはならなった。しかし民主改革の後、女性の弁護士、歌手、裁判官、学者、登山家などがどんどん現われ、女性は自由に自分の才能を活かすことが出来るようになった」と語りました。

活気溢れるラサの町並みを歩くと、チベットが発展している様子がいたるところに見られ、心から喜びを感じます、これからの発展には目が離せません。



チベット、人々の生活レベルと幸福度が向上


記事の魚拓

2011-03-28 14:27:45 cri

この28日は3回目の「チベット百万農奴解放記念日」に当たります。これについてチベット自治区政府のパドマ・チョリン主席は「過去5年、チベット政府は人々の生活の保障と改善を活動の重点とし、社会保障、交通、教育などへの投入を増やすと共に、生活の質とレベルを全面的に改善してきた」と語りました。

そこで今日の「中国リポート」は28日の「チベット百万農奴解放記念日」にちなみ、当放送局記者のリポートをお伝えします。このリポートは次のように書いています。

ラサ市に住むお年寄りパサンさんは、新しい農村社会養老保険金を支払う第1陣の対象となり、数年前から60元(約900円)の保険金を毎月受け取っています。パサンさんは 「もう年なので、畑仕事もできなくなった。子どもたちに頼ってばかりいて、生活の負担もだんだん重くなっている。しかし、政府はいろいろ配慮してくれた。養老保険金がもらえたので、我が家は仲睦まじく幸せに暮らしている」と話しました。

現在チベットでは、養老保険、医療保険、失業保険の三者の自治区内での統一管理が実現し、かなり整った社会保険システムがほぼ確立されており、今後もそのいっそうの健全化を図っていくということです。

また交通整備の面ですが、主管部門は遠く離れた村々の住民への特別対策として、県・郷などの道路を利用する自動車に対しては毎月1400元(約2万1000円)の補助金を提供しています。

教育の面で主管部門は、学校での食費、宿泊費、学費を公費化する政策をさらに推し進め、義務教育を就学前教育と高校教育にまで拡大する方針です。また、生徒たちは1人当たり毎年2000元(約3万円)の補助金をもらえることになっており、この政策について、サラ市に住むの高校生のパドマ・チョドロンさんは 「このニュースを聞いて本当に喜んでいる。高い学費をこれからは払わずに済むからだ。これを知って私の父もほっとするだろう。これは私たちのような農民の子どもにとって本当にすばらしいことだ」と笑顔で答えてくれました。

また、ラサ中学校の唐沢輝校長は「生徒たちは毎年2000元の補助金がもらえるのだ。これによってそれぞれ家庭の負担も軽くなるだろう。これから農牧民の子どもたちが使うシーツや布団カバーなどの日用品はすべて国が負担してくれるので、みんなは勉強に専念して上の学校を目指すことが出来る。こうして貧しいので中退するという問題もなくなる」と語りました。

1959年の3月28日、中国政府が封建農奴制度の廃止を発令したことにより、百万もの農奴が自由の身となりました。その後2009年の1月19日、毎年の3月28日をチベット百万農奴解放記念日にすることが決められたのです。(翻訳:コオリ・ミン)



雲南省チベット族自治州 幸せな生活を過ごす農奴が昔を追憶


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3月28日はチベット百万農奴解放記念日である。チベット族自治州の各族人民は昔、民主改革を行い、多くの農奴に土地とその他の生産手段が支給された。農奴は主人に従属しなくなり、長い間「話のできる牛と馬」とされていた農奴と奴隷は、初めて本当の「人間」になった。

記者は28日、雲南省迪慶チベット族自治州シャングリラ県にある達拉村を訪れ、村で日向ぼっこをする83歳の現地の卓瑪央宗さんと話をした。卓瑪央宗さんは、かつて奴隷だったころのことを思い出し、次のように語った。夜が明ける前に働き始め、暗くなってやっと帰ることができた。12歳から26歳まで、奴隷主のために命がけで働き、常に空腹と寒さに耐え、奴隷主に殴られることもときどきあった。「今は毎日多くのものを食べることができ、服が十分あり、気分も非常によい」と幸せそうに話す。

また、もう一人の「格桑」という名前の農奴は、新しい3階建てのチベット式の建物に記者を案内してくれた。この家は3年前に建てられ、面積は約400平方メートル、客間には暖かい囲炉裏があり、木彫りの家具には「吉祥如意」の文字が彫られている。

迪慶チベット族自治州政府はチベット区の農民に高い関心を寄せている。農民は農村医療保険、養老保険、高原牧畜民の子供への補助金制度などを受けることができ、農業税も免除された。

「中国網日本語版(チャイナネット)」  2011年3月29日



チベットの一般市民が感じた60年間の変化


記事の魚拓

2011-05-23 17:02:44 cri

5月23日はチベット平和解放60周年の記念日です。この60年で、チベットは閉鎖的で貧困な地域から、開放的で裕福な地に変貌し、普通の人々の暮らしも大きく変わりました。

77歳のイシラツイさんは、大昭寺の近くに住んでいます。チベット風の2階建ての家を持っていますが、全国各地からの観光客のための民宿にしています。

イシラツイさんは「解放前、私は八角街で奴隷だった。働くところが寝場所で、自分のものはレンガ一つ瓦一枚なかった。何も食べるものがなく、普通の人が食べるハダカムギの団子を食べるのもまれで、バターを巻いた牛の皮で食いつないだ。それが、今は、街はもちろん、農村でも米を自由に食べるようになっている」と、解放前後の変化を紹介しました。

旧チベットの農奴制度では、農奴の家庭では子どもを育てるゆとりが無いため、農奴の家は代々農奴でいるしかありませんでした。

1951年、チベットが解放され、イシラツイさんは、国が設置したチベット民族幹部養成学校に入り、初めて系統的な教育を受けました。卒業後、ラサ史上初の交通警察官になりました。今は定年退職したイシラツイさんですが、「今の家は以前の貴族の家よりも良い。それに、年金を毎月3650元もらっている」と、満足げに話しています。

81歳のトジツタンさんも、チベットの変化を肌で感じている一人です。実はトジツタンさんは1959年にチベットを離れたことがあります。その年、チベット動乱が起き、少数の上層反動勢力に扇動されて、周りの多くの人とともに海外への亡命に巻き込まれました。インドに40年も滞在して、1999年にラサに帰りました。

逃げた当時のことについてトジツタンさんは、「社会が急に乱れだした。漢民族が人を食うという風説も立ち、多くの人が逃げ始めていた。私も一緒に逃げたが、向うに着いたら、貴族たちがもう人を出していて、生活の準備をしていた。我々のような普通の人間には何もなかった。蒸し暑いし、食べ物も言葉も異なる。暮らしは苦しく、国際社会の援助に頼るしかなかった」と述べました。

故郷への思いから、海外に逃亡した多くの人は、地元でラジオ、雑誌などを通じて、チベットに関する情報を少しずつ収集し始めるようになりました。1985年、トジツタンさんは帰省の許可を得て、チベットに一時、帰りました。数十年ぶりのチベットについて、トジツタンさんは「びっくりした。みんな自分の家や仕事を持っている。子どもたちも学校で教育を受けている。仕事から帰ったら、お酒も飲める。自由自在な暮らしを送っている。最初は信じられなかった」と振り返りました。

1980年代以来、2000人あまりのチベット族の人々が帰国しました。政府は、住宅や土地、家畜などを援助し、一部の人は全国人民代表大会の代表と全国政治協商会議の代表にも選ばれました。

今、トジツタンさんは毎日お寺めぐりを楽しんでいます。子どもたちは、小昭寺の付近で店を経営しており、孫は小学生です。トジツタンさんは「青海チベット鉄道が開通したとき、政府に招待されて、一番列車で青海に行って来た。祝日も政府の責任者がお見舞いに来る。生きて帰国して、よかったと思う」と、感無量です。(朱丹陽)



チベット活仏の目に映る新旧チベット


記事の魚拓1記事の魚拓2

「比較して初めて判断ができる」。このほどラサで開かれた「西蔵(チベット)平和解放60周年慶祝座談会」で、西蔵北部ナクチュ地区にあるシャプテン寺の第7世活仏、ギュガン・トブデンクギュ氏は5つの「最低限の」を用いて新旧西蔵を比較してみせた。

同氏は1950年代にシャプテン寺の第7世活仏に認定され、現在は西蔵自治区政協副主席、中国仏教協会副会長、全国政協常務委員などのポストを兼任している。

西蔵に起きた天地を覆すような変化の目撃者である同氏は西蔵の経済と社会は昔とは比べ物にならないほど発展したと指摘したうえで、5つの「最低限の」を用いて次のように新旧西蔵を比較してみせた。

旧西蔵では無数の人民大衆には最低限の人権すらなかった。民主や法制など言うまでもない。60年前の西蔵社会は人口の5%足らずの役人、貴族、高僧の「三大領主」にとって天国で、百万の農奴にとってはこの世の地獄だった。

肥沃な土地や群れなす牛と羊はみな「三大領主」が所有し、農奴は自分の影のほかに何も持っていなかった。しかも様々な租税を納め、思い賦役に服さねばならず、少し不注意があれば目をくり抜かれ、筋を切られ、虫やサソリのいる深い穴に投げ入れられるなどの残酷な刑罰を受けなければならなかった。60年前、西蔵の上流階級は農奴を売買することもできた。西蔵の無数の農奴には人身の自由さえなかったのだ。

旧西蔵には最低限の教育システムすらなかった。発展など言うまでもない。旧西蔵には貴族の子女が通うポタラ学校以外に学校はなく、貧しい家庭の子女は教育を受けるすべがなかった。平和解放前、西蔵の適齢児童の入学率は2%以下で、非識字率は95%に達していた。現在では小学校入学率は99.2%、中学入学率は98.2%に上り、自治区全体で累計170万人の非識字者が新たに読み書きを覚え、青壮年の非識字率は1.2%にまで下がり、平均教育年数は7.3年に達している。

60年後の今日では、西蔵全体をカバーする大学、高校、中学、小学教育ネットワークがすでに形成されている。現在は「三包」政策(食費・寮費・学費援助)や内地での西蔵中学創設により、適齢児童の入学率は上がり続けている。

旧西蔵には最低限の病院すらなかった。健康や長寿など言うまでもない。昔の西蔵にはチャクポ・リのチベット医学院以外に病院はなかった。60年後、西蔵にはチベット医学、中国医学、西洋医学を結合した医療衛生ネットワークや「農村合作医療制度」があり、農牧民は良好な医療を保障されている。

60年来、西蔵人の寿命は伸び続けた。現在、西蔵の各郷・鎮に衛生所が設置され、平均寿命は平和解放前の35歳から67歳へと伸びた。

旧西蔵には最低限の道路すらなかった。建設など言うまでもない。最低限のエネルギー(電気)すらなかった。科学技術など言うまでもない。生産力の解放はなおさら言うまでもない。60年前の西蔵では輸送は家畜や人力頼みだった。照明もバターや松の油を使用するしかなく、電気は全くなかった。

(今日の幸福な生活を深く心に感じ)現在、西蔵には道路、橋、鉄道、航空輸送を柱とする交通ネットワークが形成され、各県、郷、村に道路が通じている。大部分の地区に電気が通じ、各村にラジオやテレビの電波が通じている。農牧区の大衆はラジオやテレビを楽しむことができ、電話や携帯電話といった現代的な通信手段が普及し、大衆の物質・精神文化生活はどんどん豊かになっている。

今では箱(テレビやラジオ)の中に世界を見ることができる。手の中(携帯電話や固定電話)で言葉を交わせる。本当なんだ!私の生まれ育ったナクチュの放牧地では昔はテントに住み、遊牧生活を送っていたが、今では定住生活を送っている。農牧区の立ち後れた社会状況から現在の社会主義新農村へと、大衆の生活は大きく様変わりした。(編集NA)

「人民網日本語版」2011年7月14日



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