日本のアイヌ同化政策は文化的ジェノサイド

ここでは日本が同化政策によってアイヌ民族の文化を禁止・弾圧した証拠を紹介する。

先住民族問題に詳しい大学教授曰く、当時の日本の公文書で使われていた「洗除」なる用語はこんにちで言うところの民族浄化を意味する。アイヌ文化衰退の原因はこの日本による、同化政策と称した文化的ジェノサイドにあるのである。



目次
1. 日本が同化政策によってアイヌ文化を禁止した証拠
2. 日本によるアイヌ文化の「洗除」は民族浄化



日本が同化政策によってアイヌ文化を禁止した証拠


出典:桑原真人ほか『アイヌ民族の歴史』(山川出版社)のP146-147

開拓使はアイヌ民族を戸籍上では「平民」として扱うとともに、風俗・習慣、勧農、教育・宗教の三側面からアイヌ民族の「日本人」(和人)への統合を行なったが(海保洋子『近代北方史』三一書房)、そのことをもっともよく示すのが一八七一(明治四)年一〇月八日の布達である。

一、開墾致候土人ヘハ居家農具等被下候ニ付、是迄ノ如ク死亡ノ者有之候共居家ヲ自焼シ他ニ転住等ノ儀堅相禁事
一、自今出生ノ女子、入墨等堅可禁候事
一、自今男子ハ耳輪ヲ著候儀堅相禁シ、女子ハ暫ク御用捨相成候事
一、言語ハ勿論文字モ相学候様可心懸事
(大蔵省編『開拓使事業報告附録 布令類聚』上編、一八八五年)

この布達には、開拓使によるアイヌ政策の基本となる政策が盛り込まれている。第一条は、開墾を望むアイヌに住居と農具を支給する代わりに定住を求めるもので、アイヌの農耕民化政策である。この後半部分とつぎの第二条及び第三条は、死者が出た場合に住居を「自焼」して転住する行為や入れ墨・耳輪といったアイヌの風俗を禁止しようとするものである。最後の第四条は、アイヌに日本語の習得を求めている。第一条の「居家自焼」というアイヌの行為は、和人には理解しがたいものであったが、アイヌ民族にとっては送り儀礼の一種であり、彼らの精神的世界のあり様を考えれば、決して否定されるべき行為ではなかった。男性の耳輪と女性の入れ墨については、一八七六(明治九)年九月三〇日にも「北海道旧土人」の「陋習(ろうしゅう)」として再び禁止の達が出されている。これは、アイヌ民族の伝統的習俗が、わずか一度の布達で簡単に変わるものではないことを示している。

開拓使のアイヌ同化政策は、このほかにもさまざまな形で行なわれ、明治九年七月一九日には、「旧土人是迄姓氏不用之者有之候処、自今一般姓氏相用フヘシ」として、「一般姓氏」、すなわち日本式姓氏の使用が強要されている



日本によるアイヌ文化の「洗除」は民族浄化


恵泉女学園大学大学院教授の上村英明氏はこう述べている。
出典:上村英明『知っていますか?アイヌ民族一問一答 新版』(解放出版社)のP45-46

一八七一年の戸籍法によって「平民」籍へのアイヌ民族の編入がはじまると、それと同時に進められたのはアイヌ民族の皇民化です。江戸時代と違って、これには法的な強制が伴っていたため「強制同化政策」といわれます。たとえば、アイヌ民族は、死者が出ると形見の品や生活に利用しなくなった家を燃やして死後の世界に送る伝統をもっていましたが、同年、この自家焼却や女性の入れ墨、男性の耳輪などアイヌ民族の文化や伝統が禁止され、日本語の習得が強く通達されました。さらに、創氏改姓が強要されるようになり、また、翌七二年、イヨマンテの禁止もはじまりました。当時開拓使は、アイヌの民族文化の禁止に「洗除」という言葉を使っていますが、これは、今日問題となっている「エスニック・クレンジング(民族浄化)」と同じです
問題の「洗除」という言葉が使われている当時の開拓使の公文書については以下の通り。
対アイヌ民族政策における「同化」のレトリック魚拓

1871年開拓使はアイヌに対して,死者の家を焼いて転住する習慣や耳環・入墨を禁じて「言語」や「文字」の学習を奨励する布達を発し,続いて1876年には「従来ノ風習ヲ洗除シ教化ヲ輿シ漸次人タルノ道ニ入シメン」(河野編1981 : 49)との方針を示す。
当時の日本の公文書曰く、アイヌ民族の「従来ノ風習ヲ洗除」せよ。これはすなわち、かつて白人がアメリカ大陸やオーストラリア大陸の先住民族に対して行った文化的ジェノサイド(民族浄化)と同じことを自らもアイヌ民族に対して行っていたことを、当時の日本国家自身が認めていた証拠に他ならない。

こうして「洗除」されたアイヌ文化は日本において骨董品のような存在となり、アイヌ語は話し手がほとんどいなくなって
ユネスコから「極めて深刻」な消滅危機言語に指定されるなど、アイヌ民族のアイデンティティは今や風前の灯火となってしまったのである。



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