中華民国の版図でもチベットと新疆は中国の一部

ダライ集団の主張では「チベットは1913年から1951年まで独立国であったが中国政府に侵略されて滅亡してしまった」とされ、チベットは中華民国時代には中国から独立した国であったとされているが、それは嘘である。

中国中央政府によるチベット平和解放以前からもチベットと新疆(しんきょう、現在の新疆ウイグル自治区)が中国の一部であったことは昔の日本で発行された世界地図および中国地図によっても裏付けられており、その上現在は台湾に存在している中華民国ですら公式見解でチベットと新疆を中華圏としているのである。



目次
1. 中華民国(台湾)の公式見解でもチベットと新疆は中華圏
2. 昔の日本の中国地図でもチベットと新疆は中国の一部



中華民国(台湾)の公式見解でもチベットと新疆は中華圏


チベットと新疆を中華圏としているのは中華人民共和国政府だけではない。中華民国(台湾)政府も今以ってチベットと新疆を中華圏としているのである。

これら中華民国の公式領土地図では、チベット自治区に「西蔵地方」が、新疆ウイグル自治区に「新疆省」が置かれている。チベットおよび新疆が中華圏であることは中華人民共和国政府だけでなく中華民国政府にも共有されている中華民族の公式見解である。


中華民国公式領土地図の中国語版


中華民国公式領土地図の英語版

ちなみに中華人民共和国成立以前である1936年の中国で発行された中華民国地図でもチベットと新疆は中国の一部とされているため、当時から中華民国政府は両地域を中国の一部として扱っていたことがわかる。


1936年の中華民国地図

また、中華民国政府には「蒙蔵委員会」(モンゴル・チベット委員会、Mongolian & Tibetan Affairs Commission)という機関がある。これは名目上、チベットとモンゴルを統治する機関であり、中華民国政府が今以って公式にチベットとモンゴルを中華圏としている証拠の一つである。

蒙藏委員會
http://www.mtac.gov.tw/

そして中華民国憲法魚拓)の第120条には「西蔵(チベット)の自治制度は、保障しなければならない」とある。これも同じく中華民国が公式にチベットを中華圏としている証拠の一つである。

ちなみに王柯『多民族国家 中国』(岩波新書)には以下の記載がある。
出典:王柯『多民族国家 中国』(岩波新書)のP50

一九一二年三月に公布した「中華民国臨時約法」は、「中華民国の領土は二二の行省、内外モンゴル、チベット、青海から構成される」(第三条)となっており、一九一四年五月に公布した「中華民国約法」は「中華民国の領土は、以前の帝国の領域に基づく」(第三条)となっていた。そして、一九三一年六月に公布した「中華民国訓政時期約法」は、「中華民国の領土は各省及びモンゴル、チベットである」(第一条)となっていた。
補足しておくと現在の新疆ウイグル自治区は中華民国時代には「新疆省」であったため、ここでは「二二の行省」に含まれている。

このように現在は台湾に存在している中華民国ですらチベットと新疆の独立を認めていないので「中国共産党政権を打倒すればチベットとウイグルは独立する」などと考えていたらそれは大きな間違いである。



昔の日本の中国地図でもチベットと新疆は中国の一部


この節では客観性のある資料として、チベット問題および新疆問題の第三者的立場にあった昔の日本で発行された世界地図および中国地図を用いる。各地図はクリックすることで拡大できる。

以下は1908年の日本の世界地図である。


1908年の日本の世界地図

1908年は清王朝が崩壊する直前の時期に当たるが、この時点では当然ながらチベットも新疆もモンゴルも中国の一部である。

以下は1922年の日本の世界地図である。


1922年の日本の世界地図

清王朝が崩壊して中華民国が成立した1912年から10年が経過した1922年の時点でもチベットも新疆もモンゴルも中国の一部である。

ダライ集団によれば「チベットは1913年に中国から独立した」とのことだが、それから9年が経過した1922年になっても日本の世界地図上には「チベット」あるいは「西蔵」という名の独立国は存在しておらず、ダライ集団の言うところのチベット独立宣言とやらは全く実体の伴っていないものであったことがわかる。

この頃、チベットを独立国と認めていた国があるとすれば同じく1911年に独立したと自称する外モンゴルであるが、外モンゴルもこの時点では日本の世界地図で独立国と見做されてはいない。当時のチベットと外モンゴルはいわば「独立国もどき」同士で「チベット・モンゴル相互承認条約」を結んだが、両地域とも肝心の国際社会からは独立国として承認されてはいなかったのである。

そしてその「チベット・モンゴル相互承認条約」すらもソビエト連邦の後ろ盾で1924年に社会主義国家モンゴル人民共和国が成立した後に破棄された。

また、英国がチベットとの間で調印した「シムラ条約」については後述する。

以下は1933年の日本の世界地図である。


1933年の日本の世界地図

1933年になると日本による中国侵略(満州事変)の結果1932年に誕生した傀儡国家の満州国が地図上に登場する。それでもこの中国を侵略していた頃の日本ですらチベットと新疆はおろか、外モンゴル(モンゴル人民共和国)すらも独立国とは見做していなかった。

以下は1942年の日本の世界地図である。


1942年の日本の世界地図

1942年は第二次世界大戦の最中で、外モンゴルが特別な地域として扱われてはいる(ただし国名が載っていないので完全な独立国として扱われていたかは疑問が残る)が、チベットと新疆は相変わらず全く独立国として扱われていない。当時の日本にとって中国は交戦中の完全な敵国であり、何の政治的配慮もする必要はなかったはずであるが、それでもチベットと新疆を独立国と見做すなどということは一切していなかった。

ちなみに以下は同年の日本の中国地図である。


1942年の日本の中国地図

この地図では日本の占領地が「親日地方」、新疆省(現在の新疆ウイグル自治区)などが「親ソ地方」、そして西蔵(チベット)が「親英地方」とされているのが非常に興味深い。また、蒙古(モンゴル)人民共和国の名前が黄緑色で塗られ半独立地域として扱われているが、西蔵と新疆省の名前は黒色で塗られているのでやはり独立国として扱われてはいなかったことがわかる。

後年の中国中央政府によるチベット平和解放は「政教一致の封建農奴制からの解放」と言われるほか、「帝国主義からの解放」とも言われるが、その「帝国主義」とは大英帝国による「親英地方」チベットへの影響力のことである。

1914年、英国はチベットのダライ・ラマ政権との間で「シムラ条約」を調印した。これは清王朝末期以来、英領インド帝国の隣に位置するチベットへの侵略を続けていた英国がチベットに傀儡政権を設置するための条約であり、決してチベットを独立国とするものではない。いわば日本が中国東北部に傀儡国家の満州国を建設したのと同じく半植民地化を狙ったものであった。なお、中華民国はこの条約を認めていない。

要するに中国中央政府は第二次大戦後、チベットを侵略したのではなくこの英国の帝国主義を駆逐して国土を取り戻したのであり、もし近代以降にチベットを侵略した国があるのだとすればそれは中国ではなく英国なのである。英国は日本や米国などと並んでチベットをダシに中国をバッシングする者が多い国の一つであるが、その背景としてこのような歴史的経緯があるということを覚えておくと良いだろう。

そして以下は「帝国書院」から発売された1950年の日本の世界地図である。


1950年の日本の世界地図(帝国書院より)

これがダライ集団が「チベットが中国政府の侵略によって独立を失う」より1年前の時点と主張する1950年の日本の世界地図である。1946年には外モンゴル(モンゴル人民共和国)は国際社会から完全に独立国として承認されたが、チベットも新疆もやはりここまで国際社会から独立国として承認されることは一度たりともなかった。なお、中華人民共和国の成立は1949年である。

この他にも昔の欧米で発行されたアジア地図でもチベットと新疆は中国の一部とされている。次に掲載するのは1914年に米国・シカゴで発行されたアジア地図と1932年にドイツ・ライプツィヒで発行されたアジア地図である。


1914年に米国・シカゴで発行されたアジア地図


1932年にドイツ・ライプツィヒで発行されたアジア地図

当時の欧米列強のうち、米国とドイツは中国本土はともかく、英国やソ連のようにチベットや新疆やモンゴルにまで手を出すことはしなかった国であり、いわば日本と同じく当時はチベット問題と新疆問題の第三者的立場にあった国と言える。その米国とドイツで当時発行された地図でもチベットと新疆は中国の一部なのである。

もうこれではっきりしたであろう。ダライ集団の言う「チベットは1913年から1951年まで独立国であったが中国政府に侵略されて滅亡してしまった」なる話は完全な捏造であり、清王朝から中華民国、さらに中華人民共和国成立まで数百年間、一貫してチベットは中国の一部であったのである。



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