チベット平和解放は侵略だという嘘

ダライ・ラマ一味(以下ダライ集団)および西側諸国の反中勢力は「中国は1951年以前には独立国であったチベット国を軍事侵略して違法に併合した」と言い張っている。西側諸国の多くの人々の間においてはこの歴史認識が全くと言っていいほど疑われることもなく「史実」として広く信じられているが、実のところこの歴史認識は全くの虚構である。

チベットは歴史的にも法的にも中国の一部である。中国中央政府とチベット地方政府との間で協定が交わされ平和解放が実施された事実はあるが、それも合法的な国土の統一であり断じて他国に対する侵略などではない。中国中央政府は古くから国土の一部であったチベットにおいて英国の帝国主義を駆逐した上に政教一致の封建農奴制を撤廃し、チベットの人々を文字通り解放したのである。

これに対し、ダライ集団や反中勢力がしばしば挙げる「1951年に中国政府がチベットにしたことが侵略である根拠」としては、

「チベットは1913年に中国から独立していた独立国家であり、その証拠に当時のチベットには独自の貨幣とパスポートがあった」
「当時のチベットにいた西洋人はたったの数人だけで、チベットを支配する帝国主義などどこにも存在しなかったので、中国政府によって解放される必要など全くなかった」
「チベット併合は違法行為であり、その証拠に17条協定調印の際に中国中央政府側が武力で脅迫して強制的に協定を調印させた上に、署名のための印鑑を偽造までした」

…などがあるが、これらはいずれも嘘八百であり歴史の歪曲・捏造である。その証明として、これより鉄壁の反証7つを順に挙げていきたい。

さて、「中国のチベット侵略ガー」などとうるさく喚き立てている者たちの中に、このページで証拠付きで明らかにしている歴史の真実に対して別の証拠付きで論理的に反論できる者がいるのなら、是非とも名乗り出てほしいものである。それができない限り、チベット平和解放が侵略ではないことは厳然たる歴史的事実である。



目次
1. 反証1:チベットは歴史上、中国の一部であった
2. 反証2:中華民国時代もチベットは一貫して中国の一部であった
3. 反証3:独自の貨幣とパスポートは独立国の証ではない
4. 反証4:チベットから英国の帝国主義を駆逐する必要があった
5. 反証5:チベット平和解放は17条協定調印による合法的なもの
6. 反証6:ダライ・ラマ14世も17条協定に賛同していた
7. 反証7:チベット平和解放は事実上、西側諸国すら承認している



反証1:チベットは歴史上、中国の一部であった


まず、清王朝の時代にはすでにチベットは中国の領土の一部に組み込まれていたことに異論をはさむ者はいないであろう。さすがにこればかりはダライ集団も西側諸国の反中勢力も認めていることである。


清王朝の版図

清王朝は漢族系ではなく満洲族系の王朝であったため「清王朝は中国ではなく、よってチベットは厳密には中国に支配されていなかった」とする主張があるが、それは間違いである。

清王朝は支配層こそ満洲族であったが、科挙をはじめとする歴代中国王朝の国家システムに、漢語(中国語)、そして中華文化・文明を引き継いでいたれっきとした中国五千年の歴史の一部であり、中国から切り離すことのできない中国史の一部である。従って清王朝も他の中国王朝と同じく、中国なのである。

また、モンゴル族系の王朝であった元王朝のほか、正真正銘の漢族系の王朝であった明王朝の時代にもチベットは中国の一部であった。


元王朝の版図


明王朝の版図

このように歴史上、チベットは中国の一部になっていたわけであるが、ここで大きな争点となるのは清王朝が崩壊して中華民国が成立した後にチベットが独立したかどうかである。当然ながらそれについても検証していくこととしよう。

(反証2に続く)



反証2:中華民国時代もチベットは一貫して中国の一部であった


ここからは客観性を重視するため、チベット問題の第三者的立場にあった昔の日本で発行された世界地図および中国地図を用いることとする。各地図はクリックすることで拡大できる。

以下は1908年の日本の世界地図である。


1908年の日本の世界地図

1908年は清王朝が崩壊する直前の時期に当たるが、この時点では当然ながらチベットも新疆(しんきょう)もモンゴルも中国の一部である。

以下は1922年の日本の世界地図である。


1922年の日本の世界地図

清王朝が崩壊して中華民国が成立した1912年から10年が経過した1922年の時点でもチベットも新疆もモンゴルも中国の一部である。

ダライ集団によれば「チベットは1913年に中国から独立した」とのことだが、それから9年が経過した1922年になっても日本の世界地図上には「チベット」あるいは「西蔵」という名の独立国は存在しておらず、ダライ集団の言うところのチベット独立宣言とやらは全く実体の伴っていないものであったことがわかる。

この頃、チベットを独立国と認めていた国があるとすれば同じく1911年に独立したと自称する外モンゴルであるが、外モンゴルもこの時点では日本の世界地図で独立国と見做されてはいない。当時のチベットと外モンゴルはいわば「独立国もどき」同士で「チベット・モンゴル相互承認条約」を結んだが、両地域とも肝心の国際社会からは独立国として承認されてはいなかったのである。

そしてその「チベット・モンゴル相互承認条約」すらもソビエト連邦の後ろ盾で1924年に社会主義国家モンゴル人民共和国が成立した後に破棄された。

また、英国がチベットとの間で調印した「シムラ条約」については後述する。

以下は1933年の日本の世界地図である。


1933年の日本の世界地図

1933年になると日本による中国侵略(満洲事変)の結果1932年に誕生した傀儡国家の満洲国が地図上に登場する。それでもこの中国を侵略していた頃の日本ですらチベットと新疆はおろか、外モンゴル(モンゴル人民共和国)すらも独立国とは見做していなかった。

以下は1942年の日本の世界地図である。


1942年の日本の世界地図

1942年は第二次世界大戦の最中で、外モンゴルが特別な地域として扱われてはいる(ただし国名が載っていないので完全な独立国として扱われていたかは疑問が残る)が、チベットと新疆は相変わらず全く独立国として扱われていない。当時の日本にとって中国は交戦中の完全な敵国であり、何の政治的配慮もする必要はなかったはずであるが、それでもチベットと新疆を独立国と見做すなどということは一切していなかった。

ちなみに以下は同年の日本の中国地図である。


1942年の日本の中国地図

この地図では日本の占領地が「親日地方」、新疆省(現在の新疆ウイグル自治区)などが「親ソ地方」、そして西蔵(チベット)が「親英地方」とされているのが非常に興味深い。また、蒙古(モンゴル)人民共和国の名前が黄緑色で塗られ半独立地域として扱われているが、西蔵と新疆省の名前は黒色で塗られているのでやはり独立国として扱われてはいなかったことがわかる。

後年の中国中央政府によるチベット平和解放は「政教一致の封建農奴制からの解放」と言われるほか、「帝国主義からの解放」とも言われるが、その「帝国主義」とは大英帝国による「親英地方」チベットへの影響力のことである。

1914年、英国はチベットのダライ・ラマ政権との間で「シムラ条約」を調印した。これは清王朝末期以来、英領インド帝国の隣に位置するチベットへの侵略を続けていた英国がチベットに傀儡政権を設置するための条約であり、決してチベットを独立国とするものではない。いわば日本が中国東北部に傀儡国家の満洲国を建設したのと同じく半植民地化を狙ったものであった。なお、中華民国はこの条約を認めていない。

要するに中国中央政府は第二次大戦後、チベットを侵略したのではなくこの英国の帝国主義を駆逐して国土を取り戻したのであり、もし近代以降にチベットを侵略した国があるのだとすればそれは中国ではなく英国なのである。英国は日本や米国などと並んでチベットをダシに中国をバッシングする者が多い国の一つであるが、その背景としてこのような歴史的経緯があるということを覚えておくと良いだろう。

そして以下は「帝国書院」から発売された1950年の日本の世界地図である。


1950年の日本の世界地図(帝国書院より)

これがダライ集団が「チベットが中国政府の侵略によって独立を失う」より1年前の時点と主張する1950年の日本の世界地図である。1946年には外モンゴル(モンゴル人民共和国)は国際社会から完全に独立国として承認されたが、チベットも新疆もやはりここまで国際社会から独立国として承認されることは一度たりともなかった。なお、中華人民共和国の成立は1949年である。

この他にも昔の欧米で発行されたアジア地図でもチベットと新疆は中国の一部とされている。次に掲載するのは1914年に米国・シカゴで発行されたアジア地図と1932年にドイツ・ライプツィヒで発行されたアジア地図である。


1914年に米国・シカゴで発行されたアジア地図


1932年にドイツ・ライプツィヒで発行されたアジア地図

当時の欧米列強のうち、米国とドイツは中国本土はともかく、英国やソ連のようにチベットや新疆やモンゴルにまで手を出すことはしなかった国であり、いわば日本と同じく当時はチベット問題の第三者的立場にあった国と言える。その米国とドイツで当時発行された地図でもチベットと新疆は中国の一部なのである。

もうこれではっきりしたであろう。ダライ集団の言う「チベットは1913年から1951年まで独立国であったが中国政府に侵略されて滅亡してしまった」なる話は完全な捏造であり、清王朝から中華民国、さらに中華人民共和国成立まで数百年間、一貫してチベットは中国の一部であったのである。

(反証3に続く)



反証3:独自の貨幣とパスポートは独立国の証ではない


1959年のチベット民主改革以前のチベットに独自の貨幣とパスポートがあったことを以ってそれ以前のチベットを独立国であったとする主張がある。しかしそれだけでは独立国の証明としては不十分である。

現在の香港には「香港ドル」、マカオには「マカオパタカ」という中国本土の人民元とは異なる独自の貨幣があり、両地域にはそれぞれ独自のパスポートも存在しているが、決して独立国ではない。香港とマカオは中国本土とは別の政治体制が存在している地域であるが、あくまでも中国国内の特別行政区である。

同じく、旧チベットも清王朝や中華民国のもとで「自治」を行い独自の政治体制を保持していた地域である。その政治体制こそが後に中華人民共和国によって撤廃された悪しき政教一致の封建農奴制であった。ダライ集団が中国政府に要求している「香港やマカオのような高度な自治」なるものの正体とは中国政府によって政教一致の封建農奴制が撤廃される以前の状態に戻せという要求であり、ダライ集団が言うところの「人権」の観点に照らし合わせても到底容認できることではない。

旧チベットの独自の貨幣とパスポートはいわばチベット地方政府が数百年間保持してきた政教一致の封建農奴制およびそれを「自治」の名目で黙認してきた清王朝や中華民国によって生み出された副産物であり、独立国の証ではないのである。

そして次からは中国中央政府によるチベット平和解放についての話に本格的に踏み込むこととしよう。

(反証4に続く)



反証4:チベットから英国の帝国主義を駆逐する必要があった


ここからは1951年のチベット平和解放について本格的に踏み込みたい。

中国政府によるチベット平和解放は「侵略」ではなく「解放」である。しかしながらチベットが中華人民共和国成立以前からも一貫して中国の一部であったことはすでに立証した通りであるが、なぜ元々中国領だった地域を改めて「解放」する必要があったのかと言うと、前述のように英国によって半植民地化されて「親英地方」とされたチベットから英国の帝国主義を駆逐して国土を回復するためである。また、清王朝時代および中華民国時代のチベットの「自治」によって保持されてきた悪しき政教一致の封建農奴制を撤廃する意義もあった。

しかし、ダライ集団は「当時のチベットにいた西洋人はたったの数人だけで、チベットを支配する帝国主義などどこにも存在しなかったので、中国政府によって解放される必要など全くなかった」と言い張っている。はたしてそうであろうか。

そもそも植民地支配というのは帝国主義本国出身の人間の手だけによって行われるのではない。英国は英国本国よりもずっと人口の多いインドを長期にわたって支配し続けたが、その手先として多くのインド人を懐柔して利用し、植民地体制を維持していたことはよく知られている。英国はチベット支配の際にも同じ手口を用いたことは間違いなく、そんなこともわからないようでは「私は高校レベルの世界史すらろくに学んだことがないですよ」と自白しているようなものである。

この英国によるチベット侵略の歴史について、まとまった解説がなされているブログ記事がある。以下、「
空海のタントラ「仏教」とチベット(23)090406」(魚拓)という記事から引用する。
ここでどうして英国が登場しているのだろうか?実は、ダライ・ラマ9世の時、英国は既に印度を植民地にし、チベットを侵略しはじめた。1811年、印度総督はマンニンという人物をチベットに送り、活動させ、これ以降絶えずイギリス人はチベットの国境で活動するようになった

1879年、ダライ・ラマ13世の時、英国は青海からチベットを調査した。チベットの僧俗は絶対的にこれを反対した。これに対し、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマは連署して次の願書を清の駐蔵大臣に提出した。

…思うに洋人の性、実に善良にあらず、仏教を侮滅し、嘘言もて人を欺き、人を愚弄す。断じて事をともにしがたし。ここにチベットの全僧俗はともに誓詞をたて、かれらの入蔵をゆるさず。もし来るものあれば、各路に兵を派してこれを阻止し、善言もて勧阻し、事なきに相安んぜん。もしあるいは強を逞うせば命を賭して相敵せん…」(参考文3;p.62)。

遂に英国は1904年、ヤングハズバンド大佐(1863-1942)を隊長とする遠征軍を送り、ラサへの進撃を開始した。「途中グルの近辺でチベット軍は渓谷に防壁を構築し、迎撃態勢をとっていたが、イギリス軍の敵ではなく、この戦いで六〇〇人以上のチベット人が死亡または重傷を負い、二〇〇人あまりが捕虜になった。一方、イギリス軍側の損害は負傷数名、死者皆無であった。・・八月三日、イギリス軍はついにこの禁制の都ラサに入城し、長年懸案の交渉に入った」(参考文献4;p.784)。

この戦争の時、チベット兵は大量の銃を持っていた。訓練の差である(参考文献5;p.292-293)。

だが、こういうあからさまな侵略をすれば、反発を食い、目的をスムーズに達せられないことを英国は知っていた。そこで、はじめは大臣が遠征を支持するといいながら、後ではヤングハズバンド大佐は非難された(同p.328)。このずる賢さが成功した。英国は同じように第1次大戦前、中東で一方でユダヤ人に建国を認めてあげますといい、一方でアラブ人にも独立を約束していたが、甘い言葉でチベット人をたらし込み、遂にチベットを自分の半従属国とすることに成功したのだ

然し、日本が朝鮮を清から「独立」させるといって自分の植民地にし、満州を中華民国から「独立」させるといって自分の植民地にしたのと同じことを英国はやったわけだが、日本は第2次大戦で負けたため同じことをやっても悪者にされ、英国は戦勝国だったために同じことをやっても責任は未だに曖昧にされている

しかも英国は、日本より頭が良く、阿片戦争で中国に勝ったとは言え、未だ未だ中国に底力が有ることを知っていた。だから「シムラ会議」では”チベットを中国から取り上げて名目上「独立」させ、実は英国が支配する”と主張することがいえず、”「独立」ではなく・「自治」を与えて英国が支配する”とまでしか言えなかったのだ(つづく)。

参考文献:
(中略)
3.「チベット-その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)
4.「ブリタニカ国際大百科事典12」(F・B・ギブニー編/1993/TBSブリタニカ)
5.「ヤングハズバンド伝」 (金子民雄/2008/白水社)
6.「改訂新版 チベット入門」(ペマ・ギャルポ/1998/日中出版)
7.「赤いチベット」(R・フォード/1959/新潮社)
続いて、英国のチベット支配の実態について。「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット (W)090502」(魚拓)という記事から引用する。
○今回記事で明らかにしたいことは、チベットを自己の植民地にすることにより、英国は具体的にどのような経済的利益を受けたかである。参考文献1.によると、次のようなことが書かれている:

英国は阿片戦争後着々と中国に対する圧力を強め、

一八八六年、イギリスは北京で英清条約を結び、イギリス商人は、チベットのヤトンとその付近での無税の取引権を獲得している。一八九〇年、イギリスは清朝にシッキム(*1)の保護権を承認させて、カルカッタでシッキム-チベット条約・・を結ばせた。さらに翌九三年、イギリスはカルカッタで、シッキム-チベット条約付属章程に調印させ、イギリス人のチベットにおける事実上の治外法権を取得した

・・・

・・(1904年のヤングハズバンドの侵攻の後)清朝政府はラサ条約(*2)を結んで、ヤトン・キャンツェ・ガルトクをはじめとして、イギリス人はチベットの必要な地で自由に取引できる権利を獲得した。・・

・・・

・・(1908年)イギリスは英清カルカッタ通商協定を結び、イギリス人はチベットで土地を借り、家を建て、取引範囲を拡大し、通商代表部に護衛兵力をおく権利を獲得した

・・・

・・(1913年)当時チベットにおけるイギリスの貿易高は一九世紀に比して倍加しており、チベットと中国内地との貿易は逆に減少していた

ダライ(13世)はイギリスにそそのかされて、「大チベット」の幻想にとりつかれ、一九一八年、チベット軍をチャムドはじめ西康省西部に出し、(中国の)地方軍閥と争った。一九二二年、北京駐在イギリス大使は、中国政府にたいし、チベットの「自治権」を承認せよと内政干渉する一方で、ダライ(13世)と「英蔵軍事援助協定」なるものを結んだ。また、インド、チベット間にイギリス政府の管理する電信線を架設した。・・

・・一九二八年、南チベットに大規模な農奴蜂起があり、徴税吏の取立てを拒否し、広大な地区を解放したが、鎮圧された

このころ、不平等条約や協定に援護されたイギリス商社や英印合弁会社のヤトン・キャンツェなどの市場への進出はめざましく、略奪的な価格で買い取った英印向羊毛輸出は年二〇〇〇トンに達した

一九三〇年一月、イギリスはネパール軍を挑発して、チベットに侵入させた。ダライ(13世)は(中国)中央政府の援助を求め、ラサで国民党の役人と会談し・・チベットが中国の領土であり、中国の一構成部であることをみとめた

・・・

一九三六年、イギリスは強引に同国の常設政治代表部をラサに設立し、初代の政治代表にヒュー・リチャードソンをおいた。また、ラサに無線電信局を開設した。・・

・・・

一九四九年・・アメリカのラジオ解説者トーマス一行は、チベットの売国派と、アメリカ駐印大使館の手引きでチベットを旅行し、帰国してトルーマン米大統領に、チベット売国派に近代兵器を供与するよう進言した」(参考文献1;p.62-71)。

○「赤いチベット」の著者とされるR・フォード氏も次のように言っている。

「ラサに戻った(イギリスへの留学生)は・・水力発電所を建て、これが今でもラサの町とダライ・ラマ(14世)の夏宮に、電力を送っている。その建設材料はすべて・・ヒマラヤを越えて(印度から)運ばれたのである」(参考文献3;p.139)。

○こういうことが続いていくと結局どうなるだろうか?江戸時代、大名や武士たちは商人への借金で首が回らない状態だった。ダライをはじめチベットの支配者たちもそうなるだろう。だが彼らには英国に対する借金を「徳政令」若しくは商人への「お取り潰し」でチャラにする力はない。だから最後は国内から膨大な税金を取り、農牧民の苦しみは悲惨になっただろう。ダライ派は新たな時代を切り開く力は結局なかった。

(*シッキム:
もともとチベット人の住む国で、紅教徒(チベット密教ニンマ派)により建国された。チベットの属国であった。1890年、英国の保護国となる。印度独立後は印度の一部とされ、一方中国は中国の一部とした。長く紛争が続いたが、実際問題として元来のチベット系住民の比率が急落しているため、2005年、中国はシッキムが印度の一部であることを認め、同時に印度はチベットが中国の一部であることを認めた

*ラサ条約:
これにより、「チベットは、イギリスがインドから持込む品目に対する諸関税を全廃すること」が決まった。−参考文献2;p.784より)。

参考文献:
1.「チベット−その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)
2.「ブリタニカ国際大百科事典12」(F・B・ギブニー編/1993/TBSブリタニカ)
3.「赤いチベット」(R・フォード/1970/芙蓉書房)
これだけの歴史的事実がありながら当時のチベットが英国の帝国主義によって支配されていなかったなどと言い張るのは、いくらなんでも無理があるというものである。

なお、参考にチベットの隣に位置するインドで英国がやっていた植民地支配の残虐性を示す出来事についても簡単に触れておく。「世界史講義録 第100回 イギリスのインド支配」(魚拓)という記事から引用する。
イギリス東インド会社によるインド支配

イギリス東インド会社が、インドを支配するようになって、インドは重い負担に苦しむようになりました。

まず、税負担があります。イギリス東インド会社の徴税額をみると(プリントの表を参照しながら)、1765年ベンガル太守時代には、82万ポンド。1770年東インド会社時代になると234万ポンド。1790年には340万ポンドと、増加しつづけています。別の資料によると、東インド会社による地租(土地税)収奪は、1771年から72年にかけて234.2万ポンド。これを指数100とすると、1821年から22年が1372.9万ポンドで、指数589。1856年から57年が1531.8万ポンドで指数654。こちらでも、どんどん税額が増えている。

税を増やすだけでなく、東インド会社は、インド農民に高く売れる商品作物の栽培を強制します。綿布の染料に使う藍や、麻薬アヘンの原料となるケシなどです。小麦など食糧をつくるべき畑で、食糧を作れない。食糧生産量は落ちる。藍やケシをいくら栽培しても、腹の足しにはならない。この結果、飢饉が激増します。

インド大飢饉回数の表があります。

18世紀 大飢饉3回 死者数不明
1800〜25 大飢饉5回 死者100万人
1826〜50 大飢饉2回 死者40万人
1851〜75 大飢饉6回 死者500万人
1876〜1900 大飢饉18回 死者1600万人

19世紀に2000万人以上が餓死しているのです。イギリスの支配によって、インドは貧困に追い込まれたのです。
そして、この残虐な英国によるチベット半植民地化と、旧来から維持されてきたダライ・ラマ政権(英国の傀儡政権)による政教一致の封建農奴制に苦しめられていたチベットの人々を文字通り解放するために中国政府が実行した英断、それがチベット平和解放なのである。

(反証5に続く)



反証5:チベット平和解放は17条協定調印による合法的なもの


ここからはチベット平和解放に伴って調印された「チベット平和解放の方法に関する取り決め」(17条協定)について解説する。

当時、中国中央政府は時のチベットの第二の指導者的地位にあったパンチェン・ラマ10世の要請でこのチベット平和解放を実施し、英国の帝国主義をチベットから締め出した後、話し合いの上で1951年に「チベット平和解放の方法に関する取り決め」(17条協定)をチベット地方政府との間で調印した。

以下が17条協定の全文の日本語訳である。
中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放の方法に関する取り決め魚拓

※画像クリックで拡大。


(「17カ条取り決め」と略称)

(1951年5月23日)

チベット民族は、中国国内の長い歴史を持つ民族の一つであり、その他の多くの民族と同じように、偉大な祖国の創造と発展の過程で、自らの栄えある責任を果たしてきた。しかし、ここ百余年来、帝国主義勢力が中国に侵入し、同時にチベット地区にも侵入して、さまざまな欺瞞と挑発を行った。国民党反動政府はチベット民族に対しては、以前の反動政府と同じように、その民族抑圧と民族離間の政策を引き続き実行して、チベット民族の内部に分裂をもたらし、団結を破壊した。他方、チベット地方政府は、帝国主義の欺瞞と挑発に反対せず、偉大な祖国に対し非愛国主義的な態度をとったこれらの状況によって、チベット民族とチベット人民は奴隷化と苦痛の深淵に陥った

1949年、中国人民解放戦争は全国において基本的勝利をおさめ、各民族の共同の内部の敵――国民党反動政府を打倒し、各民族の共同の外部の敵――帝国主義侵略勢力を駆逐した。この基礎の上に、中華人民共和国と中央人民政府はその成立を宣言した。中央人民政府は、中国人民政治協商会議で採択された共同綱領に基づいて、中華人民共和国国内の各民族が一律に平等であり、団結と互助を実行し、帝国主義と各民族内部の人民の公敵に反対し、中華人民共和国を各民族の友愛、協力の大家庭にする、と宣言した。中華人民共和国と各民族の大家庭では、各少数民族が集まって住んでいる地区で民族区域自治を実行し、各少数民族はいずれも自らの言語文字を発展させ、その風俗習慣と信教信仰を保持または改革する自由があり、中央人民政府は、各少数民族がその政治、経済、文化教育の建設事業を発展させるのを援助する。そのときから、国内の各民族は、チベットと台湾地区を除いて、いずれも解放された。中央人民政府の統一的指導と各級人民政府の直接指導の下で、各少数民族はいずれも民族平等の権利を十分に享受し、民族区域自治を実行したかあるいは実行している。

帝国主義侵略勢力がチベットに与えた影響を順調に一掃し、中華人民共和国の領土と主権の統一を実現し、国家を防衛し、チベット民族とチベット人民を解放して、中華人民共和国の大家庭に復帰させ、国内のその他の民族と同様の民族平等の権利を享受し、その政治・経済・文化教育事業を発展させるため、中央人民政府は人民解放軍にチベット進駐を命じる際、チベット平和解放の方法に関する取り決めを結ぶため、代表を中央に派遣して交渉するようチベット地方政府に通知した。1951年4月下旬、チベット地方政府の全権代表が北京に到着した。中央人民政府はただちに全権代表を派遣して、チベット地方政府の全権代表と友好的な基礎の上に交渉を行った。交渉の結果、双方は本取り決めを結ぶことに同意し、その実行を保証した。

一、チベット人民は団結して、帝国主義侵略勢力をチベットから駆逐し、チベット人民は中華人民共和国の祖国大家庭に復帰する

二、チベット地方政府は、人民解放軍がチベットに進駐し、国防を固めることに積極的に協力する。

三、中国人民政治協商会議共同綱領の民族政策に基づき、中央人民政府の統一的指導の下で、チベット人民は民族区域自治を実行する権利がある。

四、中央はチベットの現行政治制度を変更しない。ダライ・ラマの固有の地位と職権も変更しない。各級の官吏はこれまで通り勤務する。

五、パンチェン・オルドニの固有の地位と職権は、維持すべきである。

六、ダライ・ラマとパンチェン・オルドニの固有の地位と職権は、第13世ダライ・ラマと第9世パンチェン・オルドニが互いに睦まじくしていたときの地位と職権を指す。

七、中国人民政治協商会議共同綱領で定められた宗教信仰自由の政策を実行し、チベット人民の宗教信仰と風俗習慣を尊重し、ラマ寺院を保護する。中央は寺院の収入を変更しない。

八、チベットの軍隊は人民解放軍に逐次改編し、中華人民共和国の国防武装力の一部分となる。

九、チベットの実情に基づいて、チベット民族の言語、文字および学校教育を逐次発展させる。

十、チベットの実情に基づいて、チベットの農業、牧畜業、工業、商業を発展させ、人民生活を改善する。

十一、中央はチベットに関する諸改革を強制しない。チベット地方政府は自らすすんで改革を行うべきであり、人民が改革を要求した場合は、チベットの指導者と協議する方法でこれを解決しなければならない。

十二、これまで帝国主義、国民党に親しかった官吏は、帝国主義、国民党との関係から断固離脱し、破壊、抵抗さえしなければ、引き続き勤務することができ、過去のことは追及しない。

十三、チベットに進駐した人民解放軍は、前述の諸政策を遵守し、同時に公正に売買し、人民のものは針一本、糸一すじりも勝手にとってはならない。

十四、中央人民政府は、チベット地区のすべての渉外事務を統一的に処理し、また平等、互恵および領土、主権の相互尊重を踏まえて、隣邦と平和的に付き合い、公正な通商貿易関係を樹立し、発展させる。

十五、本取り決めの実行を保証するため、中央人民政府はチベットに軍政委員会と軍区司令部を設立し、中央人民政府の派遣した要員を除き、できるだけチベット地方の要員を仕事に参加させる。

軍政委員会に参加するチベット地方の要員には、チベット地方政府および各地区、各主要寺院の愛国分子を含まなければならず、中央人民政府の指定した代表と関係各方面が協議して名簿を提出し、中央人民政府に報告して任命する。

十六、軍政委員会、軍区司令部およびチベット進駐人民解放軍の必須経費は、中央人民政府が支給する。チベット地方政府は人民解放軍の糧秣その他の日用品の調達、運送に協力すべきである。

十七、本取り決めは署名、押印後直ちに発効する。

中央人民政府全権代表

首席代表
李維漢(署名押印)

代表
張経武(署名押印)
張国華(署名押印)
孫志遠(署名押印)

チベット地方政府全権代表

首席代表
アペイ・アワンジンメイ(署名押印)

代表
カイモ・ソアンワンドイ(署名押印)
トブタンダンダ(署名押印)
ドブデンリェメン(署名押印)
サンポ・デンゾンドンチュ(署名押印)

1951年5月23日北京にて
このようにチベット平和解放はチベット地方政府側の要請で行われ両者の合意を得た合法的なものであると同時に、17条協定の全文を読めば中国中央政府がチベットを尊重した善良なものであったことがわかる。

もちろんここで言う「帝国主義勢力」とはこれまでも繰り返し説明してきたように、チベットにおける英国、新疆におけるソ連、そして中国本土における日本など列強諸国のことである。「チベットから英国の帝国主義を駆逐する」という大義は1951年時点の中国の公文書にすでに明記されていることであり、決して後年になってチベット平和解放が反中勢力によって「侵略だ」などとバッシングされるようになってから後付けででっち上げた言い訳ではないのである。

この時点では、長らくチベットを支配してきた政教一致の封建農奴制の撤廃については話し合いの結果、チベットの独自性の尊重の一環として一旦留保され(第4条および第11条)、中国中央政府はチベットから英国の帝国主義と国民党の影響力を排除することに専念したが、後に政教一致の封建農奴制の撤廃が再決定され1959年に実施されたチベット民主改革によってチベットは完全に解放された。

(反証6に続く)



反証6:ダライ・ラマ14世も17条協定に賛同していた


17条協定調印という厳然たる歴史的事実に対し、こんにちのダライ集団は「中国中央政府側が武力で脅迫して強制的に協定を調印させた」とか「署名のための印鑑を偽造した」などと言い張りチベット平和解放の合法性を頑なに認めようとしないが、そもそも当時のダライ・ラマ14世本人が17条協定に進んで賛同していた公文書が残っているので、そのような言い訳は成り立たない。

まず、17条協定強制説への反証となる公文書を紹介する。
ダライラマ14世が毛沢東に送った電報が公開魚拓

※画像クリックで拡大。

中国国家档案局(資料局)は7日、中央档案館の所蔵する「ダライラマ14世が『取り決め』支持を表して毛沢東主席に送った電報」を公開した。ダライラマは電報の中で、「西蔵(チベット)平和的解放の方法に関する取り決め」への明確な支持を表明し、「毛主席と中央政府の指導のもとで」「祖国領土主権の統一を守る」ことへの意欲を示していた。(編集MA)

「人民網日本語版」2008年4月8日




中国国家文書局、ダライラマ14世の文書を公開魚拓

2008-04-08 14:25:55 cri

中国国家文書局は、7日、中央文書館に所蔵された「協定を支持するため、ダライラマ14世が毛沢東主席に送った電報」を公表しました。

1951年10月、ダライラマが当時の毛沢東主席宛に送った電報の中で、「友好を踏まえて、チベットの平和的開放の方法に関する協定に調印した。チベット地方政府、僧侶、住民は、一致してこれを支持すると共に、毛主席や中央人民政府の指導の下で、国防の強化のために、人民解放軍に積極的に協力していく。また、チベットにある帝国主義勢力を追い払い、祖国の領土や主権の統一を守っていく」と述べています。(翻訳 朱丹陽)




チベットの平和解放を侵入に言い換えるのが陰謀だ魚拓

2011-05-20 10:58:50 cri

チベット自治区政府のペーマツェーリン主席は19日北京で、「ダライラマ14世は歴史的事実を無視し、チベットの平和解放を人民解放軍によるチベットへの侵入といっている。これは歴史を完全に歪曲し、下心を持つものだ」と指摘しました。

国務院報道弁公室の記者会見で、ダライラマ集団が17条協定を迫られて調印したのだと言う言い方をどう見るかという記者の質問を受けて、チベット自治区政府のペーマツェーリン主席は「1950年、人民解放軍はチベットに入った後、ダライラマ14世はアペーアワンジーンメー氏を代表とする、当時のチベット政府代表団を北京に派遣し、交渉を行った。交渉期間中、代表団はダライラマと終始密接な連絡を取っていた。協定が調印された後、ダライラマは会議を開き、この協定を一致して擁護することを示した上、毛沢東主席に電報を送り、この協定がチベット地方政府および僧侶と民衆の完全な擁護と同意を受けたと述べた。こうして見ると、17条協定を強迫と恐喝を受けて調印したことはまったくなかったことが分かる」と述べました。ペーマツェーリン主席は「中央政府のダライラマに対する政策は明確なものだ。彼は祖国分裂の立場を放棄し、祖国分裂の活動を止め、チベットと台湾が中国の分割できない一部分であり、中華人民共和国政府が全中国を代表する唯一の合法政府であることを公に承認するという前提の下で、何でも交渉することができる。中央政府をダライラマとの接触と話し合いの扉はずっと開いている。大切なのは、彼がチベット独立の立場を真に放棄するかどうかということである」と述べました。(翻訳:董燕華)
次に、反中プロパガンダ本にも載っている17条協定強制説に対し、的確な反論をしている「
(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット (U)090501」(魚拓)という記事から引用する。
ところがその後ダライ派は、「17条協約」でチベット代表が押したハンコは本物ではなく、中国側の用意した偽物であったから無効であると言い出した。

「協定書の署名に当たって、中共側は代表に捺印を求めた。・・代表団が国璽も各自の印も持参していないというと・・中共側は直ちに偽の国璽と印を作って署名させた」(参考文献1;p.81)。

ところが、参考文献2の解説(木村肥佐生氏による)で紹介されているがダライ・ラマ14世の姉婿であるプンツォク・タクラ氏(当時の代表団の1人)は次のように言う。

「我々は・・チベット政府の印鑑を持参していないのでラサから取り寄せる間待って欲しいと中共当局に言った。・・中共側は「その必要はない、印鑑は当方で用意するから・・」と言った・・」(参考文献2;p.349)。

つまり中国側はことさらに偽物のハンコを押させたのではなく、親切心からハンコを用意したに過ぎないのである。

また、協定に無理やり署名させられたと言うのも事実と違うであろう。ダライ派は次のように言う。

「代表の前には・・”十七箇条協定書”が置かれていた。彼らは否応なくその文書に署名させられた。・・会談とは名ばかりで、脅迫や、がんがんテーブルをたたく罵声など、話し合いの雰囲気など微塵もなかった」(参考文献1;p.80)。

処が同じ本で次のように語られる

「九月終わり、十七箇条を承認するのかどうかを討議するため議会が召集された。議場には・・(17か条に署名したチベット代表団団長の)アボも出席していた。彼は壇上に進み出、開口一番、自分は一銭たりとも買収されてなどいないといった。ついで滔々と述べ立てた。

「ダライ・ラマの地位、権力は十七箇条によっていささかも変わることはない。チベットの宗教、政治制度にも変更はない。議会はいささかヒステリックになってはいないだろうか?毛主席のおかげで享受することになる様々な恩恵が少しも分かっていないのではないか。僧院への寄進はこれまでにないものになろう。近代的設備を整えた立派な病院ができ、すべての子供たちは学校に通える。市内には舗装道路が完備し電気が通る。毛主席の厚意を受け入れないとは何という悲劇だ。今こそチベットが近代社会に加わる絶好の機会であり、毛主席がそれを指導して下さるであろう

この演説に拍手喝采したのはラサの三大僧院長たちであった。僧院の既得権が中共によって守られるなら、後のことなど大したことではない。・・この態度は民衆にも伝わっていた」(参考文献1;p.85-86)。

そしてダライ・ラマ14世と「聖職者並びに一般国民と共にチベット地方政府はこの十七箇条協定を全員一致で承認」した(同p.86)。これは”強制”とは言えないだろう。次のように述べた本も有る。

「コミュニストのやり方は巧妙だ。・・

もっと巧妙だったのは、彼らが戦時俘虜の問題を解決したあざやかさだ。(チャムド近くの山中の寺で包囲され・降伏した東部チベット軍主力5千人の)捕虜はただ一列に並ばせて、通行証とお金(中国政府支出)を渡して、妻子を連れてラサに帰るように言っただけである。このシーンも映画に収められたが、今度は、、笑顔を命令する必要もなかった。もちろん、中国人の親切さをふれ回るようになどと、言うまでもなかったのである」(参考文献2;p.199)。

そこで次のようなことが生じた。

「人民解放軍はアペイ・アワンジンメイ(訳し方の違いにより、「アボ・ジグメ」とも言うし、「ヌガボ・シャペ」とも言う。ラル・シャペの後を引き継ぎ、当時の東チベット総督)を鄭重に扱い、中国共産党と毛沢東主席の民族政策を懇切に説明した。アペイは四〇〇〇平方キロの土地と二五〇〇人の農奴をもつ大貴族であり、チベット地方政府を構成する六人のガロン(大臣)の一人であった。かれは、人民解放軍に遭遇していらいの自身の体験を通じて、針一本・糸一本とることなく、規律正しく、民衆を大切にし、俘虜を人道的に扱う人民解放軍と中国共産党の政策に深く感動し、信頼した。かれは決意して、ダライ一四世宛てに中央政府との和平交渉に応ずるよう心をこめて手紙を書いた」。

「当時のラサ当局の状態はどうであったか。一九五〇年暮れから五一年の当初にかけてのダライ集団の動揺から決断までのいきさつをのべよう。これは「日本と中国」紙代表団が一九七七年四月、ラサにおいて会談したトテンタンタ氏(元ダライ一四世秘書長、和平交渉代表団五人の一人)から取材したものである。

アペイ・アワンジンメイの手紙を二人の使者がラサにもたらしたのは、一九五〇年の一一月だった。そのころのラサには、チャムド一帯で国民党の敗残分子が流したデマ「中国共産党は人間を食う野蛮人だ」といううわさがひろがっていた。アペイの手紙は、これを真っ向から打ち消すもので、中国共産党は立派で、チベット民衆を援助するものだ。代表を北京に送って談判することが、チベット上層集団にとっても利益になることだということが、懇々と説かれていた」。

「ダライ集団はこの手紙を信ずることができなかった。・・ラサ駐在のR・フォックスなどのイギリス人が、「北京に代表を送ったらおしまいだ」という警告をくりかえしたからである。また、ダライ集団のまわりには、イギリスが長年かかって養成した手先がいた。その一人シャラバという男が、インドからダライ一四世に手紙を送って、チベットにいると危ないからインドに逃げてこい、イギリス政府に交渉して了解も得ている。イギリス当局は、ラサに空港をつくれば、迎えの飛行機を送るとまでいってくれていると書いてよこした。ダライ一四世は一一月八日、ラサを出発してインドに向かった。また、おびただしい財宝をシッキムに送らせた。ダライ一四世は、ヤトンにつくと、インドとイギリスに亡命方の連絡をとった。返事はシャラバがいってよこしたような甘いものではなかった。アメリカ・イギリスが欲したのは、チベットにあってその絶対的支配権を行使して祖国からの分離を宣言するダライであって、一亡命者としてのダライではなかった。返事は一流浪者としてインドに亡命するならうけ入れようというものでしかなかった。ダライ一四世は失望し悩んだ。そこへ、アペイ・アワンジンメイからの二度目の使者が手紙をもってきた。アペイはくりかえし「外国人のデマを信じてはいけない。北京に使者を送って和平談判することがチベットの活路だ。心配はいらない。チャムドにいる四〇人のチベット軍将校が、こぞって中国共産党が信頼するに足る相手であることを保証する。アペイ自身が、代表の一人になって北京に行ってもよい」と書いていた」。

「年は明けて一九五一年になっていた。・・ダライ一四世の最初の重要な仕事は、インドに行って一流浪者になるのか、それとも交渉代表を北京に送り、祖国の懐にかえる道を求めるかを決断することであった。かれは、アペイの提案をうけ入れ交渉代表を任命した。アペイ・アワンジンメイを首席代表とし、地方政府代表と高級ラマ代表など五人を決定した。高級ラマ代表として代表の一人になった(このインタビューの相手である)トテンタンタ氏(元ダライ一四世秘書長)は、当時の感想を次のように述べている。

「私はチベット以外の地に行ったことがないので、北京に行ってよく調べてみる。もし中国共産党が悪いものであれば、取り決めに反対だという手紙をあなた(ダライ一四世)に出す。良いものと分かれば、あなたに代わってサインしてくると、ダライ一四世にいいました。また、行って良いか、悪いか、うらないもしてみましたが、良いと出たので、出発したのです」」(以上、参考文献3;p.80-82)。

参考文献:
1.「中国はいかにチベットを侵略したか」(M・ダナム/2006/講談社インターナショナル)
2.「赤いチベット」(R・フォード/1970/芙蓉書房)
3.「チベット−その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)
このように、17条協定は脅迫による強制も印鑑の偽造もなく正当に調印されたものであり、当時の人民解放軍の善良さは反中プロパガンダ本ですら事実上認めるところなのである。

そもそも、中国中央政府側がチベット地方政府側を武力で脅迫して協定に調印させたのならわざわざ相手の印鑑を偽造する必要などないし、印鑑を偽造して勝手に協定に調印したのならわざわざ相手を武力で脅迫する必要などない。ダライ集団自身も、ダライ集団の言うことを鵜呑みにしている反中連中も、自らの二つの主張が相互に矛盾していると気づかないのだろうか?

以上のように中国政府のチベット平和解放は歴史的にも法的にも完全に正当な国土の統一であり、断じて違法な侵略行為ではないのである。

(反証7に続く)



反証7:チベット平和解放は事実上、西側諸国すら承認している


中国のチベット領有は西側諸国を含めた国際社会から公式に認められている。現在、世界各国が公式に用いている世界地図でも必ずチベットは中国の一部として区分されている。中国のチベット領有を認めていないのはダライ集団とチベット独立派、西側諸国の民間の反中勢力だけである。
インドのシン首相
中国の西蔵(チベット)問題に対するインドの立場は一貫しており、ダライ・ラマがインドでいかなる政治活動を行うことも認めない。台湾問題では、『1つの中国』政策を堅持する

英国のミリバンド外相
公式にはチベットを中国の一部として認めてこなかった過去の英国外交は誤りだった。今でははっきりと中国の領有権を認めている

ドイツのメルケル首相
『一つの中国』原則を認め、チベット独立を支持しない

フランス外務省のエリック・シュヴァリエ報道官
フランスはチベットの独立を支持しない。私たちの立場は決して変わることはない。すなわち、中国の領土保全を支持し、分裂主義とチベット独立を支持しない

ジョン・モリス米国務次官補
ワシントンは西蔵(チベット)独立を支持しない。西蔵自治区は絶対に中国から切り離せない一部分だ

インドのクリシュナ外相
インドはチベットを中国の一部とみなしており、インドにおいて反中国的な活動を認めない。中国からの要請があればチベット問題についてインドはあらゆる支援を行う構えだ

英国のキャメロン首相
英国政府は長期にわたって実行してきた対中政策、および西蔵(チベット)関連問題への政策を変えることはない。即ち、英国は西蔵が中国の一部分であることを認め、西蔵独立を支持せず、中国の主権を尊重する

オーストリア外務省のキカルト政治局長
オーストリアは中国との友好協力関係を大変重視し、一つの中国の政策を堅持しており、チベットが中国の一部分であることを認めている。チベット独立を主張し中国の領土保全を損なういかなる分裂行為も支持しない

米国のオバマ大統領
チベットは中国の一部分であり、米国はチベットの独立は支持しない
これらの見解はすなわち国際社会も事実上、公式に中国政府によるチベット平和解放を承認しており、侵略行為とは見做していないことを意味している。ダライ集団が言うようにチベット平和解放が違法な侵略行為なら、なぜ西側諸国も含む世界各国が揃いも揃ってこのような見解を表明しているのかを説明できない。

また、現在は台湾に存在している中華民国ですらチベットの独立を認めていないので「中国共産党政権を打倒すればチベットは独立する」などと考えていたらそれは大きな間違いである。

中華民国憲法魚拓)の第120条には「西蔵(チベット)の自治制度は、保障しなければならない」とある。これは中華民国が今以って公式にチベットを中華圏としている証拠の一つである。

そして惜しくも2017年9月15日に解散されたが、中華民国政府には「蒙蔵委員会」(モンゴル・チベット委員会、Mongolian & Tibetan Affairs Commission)という機関があった。これは名目上、チベットとモンゴルを統治する機関であり、つい近年も中華民国政府が公式にチベットとモンゴルを中華圏としていた証拠の一つである。

よってこれから先、100年後もチベットは中国の一部であり続けるであろう。天と地がひっくり返りでもしない限り、あるいは中国という国が地球上から完全に消滅でもしない限り、チベットが独立することはあり得ない。

チベットは過去においても現在においても未来においても紛れもなく中国の一部なのである。



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