ここでどうして英国が登場しているのだろうか?実は、ダライ・ラマ9世の時、英国は既に印度を植民地にし、チベットを侵略しはじめた。1811年、印度総督はマンニンという人物をチベットに送り、活動させ、これ以降絶えずイギリス人はチベットの国境で活動するようになった。
1879年、ダライ・ラマ13世の時、英国は青海からチベットを調査した。チベットの僧俗は絶対的にこれを反対した。これに対し、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマは連署して次の願書を清の駐蔵大臣に提出した。
「…思うに洋人の性、実に善良にあらず、仏教を侮滅し、嘘言もて人を欺き、人を愚弄す。断じて事をともにしがたし。ここにチベットの全僧俗はともに誓詞をたて、かれらの入蔵をゆるさず。もし来るものあれば、各路に兵を派してこれを阻止し、善言もて勧阻し、事なきに相安んぜん。もしあるいは強を逞うせば命を賭して相敵せん…」(参考文3;p.62)。
遂に英国は1904年、ヤングハズバンド大佐(1863-1942)を隊長とする遠征軍を送り、ラサへの進撃を開始した。「途中グルの近辺でチベット軍は渓谷に防壁を構築し、迎撃態勢をとっていたが、イギリス軍の敵ではなく、この戦いで六〇〇人以上のチベット人が死亡または重傷を負い、二〇〇人あまりが捕虜になった。一方、イギリス軍側の損害は負傷数名、死者皆無であった。・・八月三日、イギリス軍はついにこの禁制の都ラサに入城し、長年懸案の交渉に入った」(参考文献4;p.784)。
この戦争の時、チベット兵は大量の銃を持っていた。訓練の差である(参考文献5;p.292-293)。
だが、こういうあからさまな侵略をすれば、反発を食い、目的をスムーズに達せられないことを英国は知っていた。そこで、はじめは大臣が遠征を支持するといいながら、後ではヤングハズバンド大佐は非難された(同p.328)。このずる賢さが成功した。英国は同じように第1次大戦前、中東で一方でユダヤ人に建国を認めてあげますといい、一方でアラブ人にも独立を約束していたが、甘い言葉でチベット人をたらし込み、遂にチベットを自分の半従属国とすることに成功したのだ。
然し、日本が朝鮮を清から「独立」させるといって自分の植民地にし、満州を中華民国から「独立」させるといって自分の植民地にしたのと同じことを英国はやったわけだが、日本は第2次大戦で負けたため同じことをやっても悪者にされ、英国は戦勝国だったために同じことをやっても責任は未だに曖昧にされている。
しかも英国は、日本より頭が良く、阿片戦争で中国に勝ったとは言え、未だ未だ中国に底力が有ることを知っていた。だから「シムラ会議」では”チベットを中国から取り上げて名目上「独立」させ、実は英国が支配する”と主張することがいえず、”「独立」ではなく・「自治」を与えて英国が支配する”とまでしか言えなかったのだ(つづく)。
参考文献:
(中略)
3.「チベット-その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)
4.「ブリタニカ国際大百科事典12」(F・B・ギブニー編/1993/TBSブリタニカ)
5.「ヤングハズバンド伝」 (金子民雄/2008/白水社)
6.「改訂新版 チベット入門」(ペマ・ギャルポ/1998/日中出版)
7.「赤いチベット」(R・フォード/1959/新潮社)
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