河口慧海が記録した旧チベットの実態


河口慧海(1866 - 1945)

日本人としては初めてチベットを旅行した黄檗宗の僧侶である河口慧海(かわぐち えかい、1866 - 1945)の著書『チベット旅行記』(旧題:『西蔵旅行記』)に書かれた1904年頃の旧チベットの実態。

同書の序章には「チベットより仏教を除去せば、ただ荒廃せる国土と、蒙昧(もうまい)なる蛮人とあるのみ」と書かれている。中国中央政府による1951年の平和解放および1959年の民主改革以前の旧チベットは仏教以外には何も誇れるものがない未開の社会だったのである。旧チベットがいかに未開で野蛮で不潔な社会であったかは本ページに掲載した同書の第三者視点による数々の記述によって客観的に証明されている。

この河口によるチベット訪問(1904年頃)以降から平和解放(1951年)までの期間中にチベット地方政府が自力で近代化を成し遂げたとする信憑性のある一次ソースは一切ない(近代化を試みたが失敗に終わったという話ならあるが)し、河口のチベット訪問の約40年後にチベットを訪れた日本軍のスパイである西川一三(にしかわ かずみ、1918 - 2008)の著書にも河口の著書と同様の記述が多くなされているので、未開だったチベットを中国中央政府が近代化して発展させたことは疑いようのない歴史的事実である。

ちなみに河口は中国に対して何らの好意も利害関係も持たない人物であり、当時の日本では当たり前だったとは言え中国を「シナ」と呼んでいるので当然ながら「媚中左翼」などではない。当然ながら河口が書いた同書は中国がチベット問題の政治宣伝のために出版した本というわけでもない。同書はまぎれもない客観的な第三者による旧チベットの実態の記録である。

『チベット旅行記』の全文はこちら魚拓)から無料で読むことができる(ただしとてつもなく長い)。同書は青空文庫に収録されている著作権切れの作品なので本ページを閲覧している皆様には転載や拡散も大歓迎である。是非、一人でも多くの人々にチベットの本当の歴史を知ってほしい。

日本軍のスパイである西川一三(にしかわ かずみ、1918 - 2008)らによる旧チベットの記録については「外国人が記録した旧チベットの実態」を参照のこと。



目次
1. 旧チベットは貴族階級が支配する封建奴隷制社会だった
2. 旧チベットの刑罰と拷問は極めて残虐だった
3. 旧チベットでは僧侶でない人々はまともに教育を受けることすらできなかった
4. 旧チベットでは悪魔払いで病気が治るという迷信が信じられていた
5. 旧チベットは英国植民地だった同時代のインドと比べても近代化が遅れていた
6. 旧チベット人は極めて怠惰で「五百人居れば四百五十人までは確かに屑」
7. 旧チベット社会を表す諺(ことわざ)、「人殺さねば食を得ず」
8. 旧チベットのラサ府は糞尿にまみれた不潔の都だった
9. 旧チベット人は大便をしても尻を拭わず、犬に人糞を喰わせていた
10. 旧チベット人は高等ラマ僧の糞尿を薬と称して喰わされていた
11. 旧チベット人は「糞を喰う餓鬼」だった
12. 旧チベット人は人間の死体の切れ端を麦焦しに混ぜて喰っていた
13. 旧チベット人は体中が垢で真っ黒で、垢を麦焦しに混ぜて喰っていた
14. 旧チベットでは垢にまみれていればいるほど福徳と信じられていた
15. 旧チベット人には景色を楽しむという文化すらなかった
16. 旧チベットが軍隊を持たなかったというのは嫌中ネトウヨの嘘
17. チベット人以外の民族がチベットに長期滞在していると血を吐くことがある



旧チベットは貴族階級が支配する封建奴隷制社会だった


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第百一回 法王政府」

華族と人民の関係 はちょっと見ると封建制度になって居ります。それは華族の祖先という者はみな国家に功労のある人である地方を自分の領分に貰ってある。いわばそこへ封(ほう)ぜられたようなものでそこにはその地に属するところの平民がある。で、その華族家と家属及び平民との関係はほとんど国王と人民との関係のようなもので、その平民を生殺与奪(せいさつよだつ)するところの権利はもちろんその華族に在るんです。またこの華族は平民から人頭税(じんとうぜい)を徴収します。その人頭税はごく貧乏人でも一タンガー位出さねばならぬ。その上の人になると十タンガーも百タンガーも納(おさ)めるものがある。例えば非常に出世したとかあるいは沢山な財産があるとかいう人はそういう大金を納めなければならん。

ただ人頭税を納めるだけではない。その華族に対しては自分が土地をその華族から貸して貰って居ることになって居るですから、その租税(そぜい)を納めなくてはならん。それでこの人頭税というものは随分苦しい税ですけれども、納めなければ擲(な)ぐられた上に自分の財産を没収(ぼっしゅう)されてしまいますから、非常な苦しい思いをしても歳(とし)の暮には人頭税を納めなければならん。その税を納める苦しさに堪(た)えずして坊主(ぼうず)になる者も沢山ある。坊主になると人頭税を納める必要がないからです。税を免かれるために坊さんになる位ですからどうせ学問をする考えもなければ仏教を学んで人のために働きをしようという考えのあるべきはずもない。

ある時私の師匠のチー・リンボチェという方が言われたことに、「この節(せつ)わが国では坊主の数が沢山あるから仏法が盛んであるといって大いに悦(よろこ)んで居るがどうだろう。ごろごろと要(い)らない石瓦(いしかわら)が沢山あるより金剛石(こんごうせき)が二つ三つある方が尊(たっと)いではないか。どうも困ったものだ」と歎(なげ)かれた事がある。それはその訳なんで多くの坊主の目的が既に人頭税を免かれるというに在るのですから……

しかしながら一方から考えると実にチベットは残酷(ざんこく)な制度で、貧民(ひんみん)はますます貧(ひん)に陥って苦しまねばならぬ。その貧民の苦しき状態は僧侶の貧学生よりなお苦しいです。どういう有様に在るかというと、僧侶の貧学生は喰ったり喰わなんだりして居ってもとにかく月に一遍(いっぺん)ずつ学録(がくろく)を[#「学録(がくろく)を」はママ]貰うことにきまって居るし、また折々(おりおり)は布施物(ふせもの)もあるです。で自分一人の事ですからどうやらこうやらその日その日を過して行かれるですが、俗人の貧乏人は女房(にょうぼう)がある。そこへ子供でも出来たらそれこそ大変です。どんなにその子供を育てても多少の金はかかる。

その金はどこから借りるかといえば地主(じぬし)から借りるほかはない。借りたところで滅多(めった)に返せるものでない。返す見込みのない金をどうして地主(華族)が貸すかといいますと、その子が大きくなった時にその家の奴隷(どれい)にするのです。それを見込みに金を貸してやるのです。というたところでどうせ沢山な金は貸さない。むろん少しずつ貸して十円位になり、その子供が十歳位になるとその十円の金のために十五年も二十年もただ使いをするという訳です。ですから貧乏人の子供は

生れながらの奴隷(どれい) で誠に可哀(かわい)そうなものです。華族とその華族に属して居るところの平民との関係はまずこういう風ですから、その点から見ると封建制度(ほうけんせいど)でその華族家なるものはいわゆる諸侯(しょこう)の位置を占めて居るように思われる。しかしまたその他の点から見るとまた郡県制度(ぐんけんせいど)であると思われる事もある。なぜなれば華族なるものは大抵ラサ府に住して居って自分の領地(りょうち)に行って居らないのが多い。よしんばその地に家はあっても留守(るす)番だけを置いて自分達はラサ府に居る。そうかと思うと政府から命令を受けてある郡を治(おさ)めに行く者もある。で華族に管轄(かんかつ)されて居る平民のほかにまた政府へ直接に属して居る人民も沢山ある。

なお華族に属しつつまた政府から幾分の税金を徴収(ちょうしゅう)されるです。ですから人民は二重の税金を払わなくてはならん。人頭税(じんとうぜい)まで混(ま)ぜますと随分沢山な税金を納めなくてはならん。その勅任(ちょくにん)の僧侶((俗))両官は法王の命令を受けて、三人なりあるいは二人なり、司法行政の権力を握(にぎ)って地方へ租税を取立てに行くです。地方から取立てた租税はもちろん中央政府へ納めるのです。その税は物品もあればあるいは銀貨もある。ことに金鉱などから納めるところの税の中には黄金もある。それから輸入品に課した税金などもやはり中央政府に納めるです。



※管理人注:

日本には「華族」を「中華民族」や「華人・華僑」、つまり中国人のことだと勘違いしているバカが
結構いる魚拓)らしく、上記の内容を読んで「旧チベットでも漢族中国人が偉そうにしていたのか!」とかとんでもない勘違いをする輩が出てくるかもしれないので念のために説明しておくが、辞書によれば「華族」(魚拓)とは、

1. 公・侯・伯・子・男の爵位を有する者。明治2年(1869)旧公卿・諸侯の身分呼称として定められたが、明治17年(1884)の華族令で五等爵を制定、国家に功労ある者もこれに加えられ、種々の特権を伴う世襲の社会的身分となった。日本国憲法施行により廃止。

2. 《古くは「かそく」とも》平安時代以後、清華(せいが)家の別称。かしょく。

…とあり、どこにも「中華民族」や「華人・華僑」のことだとは書かれていない。要するに「華族」とは貴族階級のことを意味する言葉である。

つまり上記の内容からわかるのは旧チベットは貴族階級が支配する封建奴隷制社会だったということである。その上、旧チベットでは教政一致の政治が行われていたとか農業が主な生活手段の一つであったと河口も著書中の別の箇所で述べているので、中国政府が主張する「旧チベットは政教一致の封建農奴制社会だった」は客観的な第三者の目から見ても概ね事実なのである。




旧チベットの刑罰と拷問は極めて残虐だった


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第八十四回 晒(さら)し者と拷問(ごうもん)」

その拷問の仕方はどうであったかその当時の有様を見ることが出来なかったから知らんけれども、聞いただけでもぞっとする程の拷問である。

皮肉の拷問 その拷問の仕方は、まず割竹を指の肉と爪の間に刺し込んで爪を剥(はが)して、そうしてまた肉と皮との間へ割竹を刺すのです。それは十本の指とも順々にやられるので実に血の涙を流して居るけれども、ノルプー・チェリンは、これは自分の仕業(しわざ)[#ルビの「しわざ」は底本では「しわぎ」]であって決してテーモ・リンボチェ即ち自分の主人の命令でやった訳でないと強情(ごうじょう)を張ったそうです。



出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第八十五回 刑罰の種類」

一体

チベットの拷問の方法 はごく残酷である。またその処刑もごく野蛮の遣り方である。獄屋というようなものも、なかなかこの世からのものとは思えない程の所で、まずその拷問法の一つ二つをいいますと、先に言った割竹で指の爪を剥すとか、あるいは石で拵えた帽子を頭に載せるという仕方もある。それはまず始めに一貫匁ぐらいの帽子を載せ、それからまたその上に同様の帽子を、だんだん五つ六つと載せていくので、始めは熱い涙が出て居る位ですが、仕舞には眼の球が外へ飛び出る程になってしまうそうです。そういう遣り方もある。それから叩くというたところで柳の太い生棒(なまぼう)で叩くのですから、仕舞にはお臀(しり)が破れて血が迸(ほとばし)って居る。

それでも三百なり五百なり極めただけの数は叩かなければ罷(や)めない。もっとも三百も五百も叩く時分には、半ばでちょっと休んで水を飲ましてからまた叩くそうです。叩かれた者はとても病気せずには居らない。小便は血のような真っ赤なのが出る。私はそういう人に薬を遣った事があります。またそのお臀(しり)の傷などもよく見ましたが実に酷(むご)たらしいものであります。獄屋も余程楽な獄屋といったところが土塀に板の間の外には何にもない。かの寒い国でどこからも日の射さないような、昼でもほとんど真っ闇黒(くらがり)というような中に入れられて居るので衛生も糸瓜(へちま)もありゃあしない。

また食物も一日に麦焦(むぎこが)しの粉を二握りずつ一遍に与えるだけです。それだけではとても活きて居ることが出来ない。そこで大抵獄中に入れば知己(しるべ)が差入物をするのが常例(あたりまえ)になって居る。その差入物でも牢番に半分以上取られてしまって、自分の喰うのはごく僅かになってしまうそうです。刑罰の一番優しいのが罰金、笞刑(ちけい)、それから

眼球を抉(く)り抜いて 取ってしまう刑、手首を切断する刑。それもじきに切断しない。この両方の手首を紐で括(くく)って、およそ半日程子供が寄って上げたり下げたりして引っ張って居るです。すると仕舞(しまい)には手が痺(しび)れ切って我が物か人の物か分らなくなってしまうそうです。その時に人の見て居る前で切断してしまうのである。これは多くは泥棒が受ける。五遍も六遍も牢の中に入って来るとその手首切断の刑に掛ってしまう。ラサ府の乞食にはそういう刑に処せられたのが沢山ある。

最も多いのが眼の球を抉(く)り抜かれた乞食、それから耳剃(みみそり)の刑と鼻剃(はなそり)の刑、これらは姦夫(かんぷ)姦婦(かんぷ)がやられるので、良人(おっと)が見付けて訴えるとその男と女がそういう刑に遇うことがある。またチベットでは妙です。訴えを起さずにじきにその良人が怒ってその男と女の鼻を切り取っても、つまり政府に代って切り取ったのだからといって自分が罪を受けるということはない。流罪(るざい)にも二通りある。ある地方を限って牢の中に入れずに放任して置くところの流罪と、また牢の中に入れて置く流罪とがある。それから

死刑は水攻(みずぜめ) にして殺すんです。それにも二通りある。生きながら皮袋に入れて水の中に放り込んでしまうのもあり、また船に乗せ川の中流に連れて行って、そうしてそれを括(くく)って水に漬け石の重錘(おもり)を付けて沈めるのです。暫く沈めておいて十分も経つと上に挙げ、なお生きて居るとまた沈めて、それから十分ばかり経って上げて見るのですが、それで死んで居ればよいが生きて居るとまた沈める。そういう具合に何遍か上げたり沈めたりしてよくその死を見届けてから、首を切り手足を切り、五体放れ放れにして流してしまって、首だけこっちに取って来るのです。で三日あるいは七日晒し者にするもあり、あるいは晒さずにその首を瓶の中に入れて、そういう首ばかり集めてある堂の中に放り込んでしまうのもある。その堂というのは浮かばれない堂という意味で、そこへ首を入れられるともう一遍生れて来ることが出来ないという、チベット人の信仰からこういう残酷な事をするのです。



旧チベットでは僧侶でない人々はまともに教育を受けることすらできなかった


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第九十四回 教育と種族」

ここで

学校及び教育 の事についてちょっと説明をして置きます。チベットでは教育は余り普及して居らない。ただ第二の府たるシカチェの辺では大分に単純な習字とかあるいは数える事、読物の類(たぐい)は行われて居りますけれども、その他は寺でない限りはほとんど普通人民の子供は教育されるということはないのです。ですからもちろん学校も沢山にない。ただ学校らしいものはラサ府の法王宮殿に一つと、シカチェのタシ・ルフンプー寺にあるだけ。その他はすべて私塾のようなものであって最も広く教育の行われて居るのは僧侶学校である。

普通人民の子供は僧侶にならなくては中等以上の学問をすることが出来ない。政府の学校へは普通の人民は入ることは出来ない。その普通人民の下に最下族というのがある。その最下族というのは漁師、船渡(ふなわたし)、鍛冶屋(かじや)、屠者(としゃ)の四つである。鍛冶屋はなぜ最下族の中に入って居るかといいますに、これはやはりインドも同じ風俗で、鍛冶屋は屠者が動物を殺すその刀なり出刃庖丁(でばぼうちょう)を拵えるというようなところから、鍛冶屋も罪ある者として最下族の中に入れてあるです。

この普通人民と最下族の二種族は政府の学校に入ることが出来ない。殊に最下族の者は僧侶になることも許されない。だが遠方に行って自分が最下族であるということを押し隠し、そして僧侶になって居る者もありますが、自分の生れた近所では誰もがその事を知って居るから決して僧侶になることを許されない。



旧チベットでは悪魔払いで病気が治るという迷信が信じられていた


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第百五回 迷信と園遊」

病根は悪癘(あくれい) チベットでは病人の全癒(ぜんゆ)を謀(はか)るには医薬がおもなる部分でない。最も主要なる部分すなわち病人に対し最も有効なりとせらるる部分は祈祷(きとう)である。彼らの信仰によると病気は大抵悪魔、厄鬼、死霊等の害悪を加うるによるものであるから、まず祈祷の秘密法によって悪癘を払わなくては、たとい耆婆(ぎば)扁鵲(へんじゃく)の薬といえども決して利くものでない。で、いかなる悪癘が今その病人に対して禍(わざわい)を加えて居るかということは、普通人間の知らないところであるから、まずこれを知るためにはラマに尋ねなければならんというので、ラマの所へ指して書面を持たして尋ねにやるとか、あるいは使をやって尋ねるとか、または自分で行って尋ねるです。

するとラマはいろいろその事に関する書物等を見て判断を下し、これは郎苦叉鬼(ラクシャキ)の祟(たた)りであるとかあるいは鳩槃陀鬼(クハンダキ)または夜叉鬼(やしゃき)の害であるとか、あるいは死霊、悪魔、その地方の悪神等が祟りをして居るとかいうことをよく見定めて、それに対する方法としてどこのラマに何々のお経を読んで貰えという。もっともラマの名を書いてある事もあればまた書いてない事もある。それは誰でもやれる方法である時は名は書かない。少しむつかしい方法になると誰某(たれそれ)という指名をするのです。

そこでお医者さんはというた時分に、まずこの秘密の法を三日なり四日なり修めてから、どこのお医者さんを迎えろということもあり、またこの法を修むると同時に迎えということもある。あるいはこの病人は薬は要らない、今まで飲んで居った薬は止してただ祈祷だけで治るというような説明もある。それはいろいろになって居ますが、まずそれを尋ねに行きまして口で答をするのはそんなに高等のラマではない。中等以下のラマがやります。中等以上のラマですと、その方法書を自分の侍者に書かせてラマ自身に実印を捺(お)し、そしてその書面を尋ねに来た人に渡すです。

で今日医者を迎えれば助かるべき筈の病人でも、その方法書に五日の後に誰それを迎えて治療を頼めと書いてありますと、チベット人は病気はどうあれまず悪魔を払ってしまわなければ、たといお医者を迎えて薬をのんだところが到底治るものでないと堅く信仰して居るからまず祈祷をする、それでその日に病人が薬を得ないために死んでしまっても、その家族等は決してラマなりあるいは神下(かみおろ)しなりを不明であるというて、怨(うら)むこともなければ悪口をいいもしない。かえって「成程えらいラマだ。もう今日死ぬことが分って居ったからお医者さんを迎える必要はないというてわざと五日の後と書かれた。さすがに感心なものだ」といって感心して居る位。

もしもそう言わずに理屈の分った者が「どうもかのラマは詰らない事をいうものだ。かの病人はかの時に薬を服(の)まして置けば助かるべき筈であるのに、ああいう馬鹿な方法書を書いてくれたためにとうとう病人が死んでしまった」などといいますと、世間ではかえってその人を非常に罵倒(ばとう)し「彼は外道(げどう)である。大罪悪人である。ラマに対して悪口をいうとは不届(ふとどき)である」というて非常に怒るです。その怒られるのが怖さに、よく分って居っても何もいわずに辛抱して居る人間も沢山あるということは、私が確かに認めたところです。

もっとも医者といったところでほとんど病気を治す方法を知らない。ごく古代のインドの五明中の医学が伝って居るだけで、その医学もごく不完全なものである。しかし不完全な医学だけでも心得て居れば、病人に対して幾分の助けをなすことが出来るでしょうけれども、彼らはその医学のなんたるを知らずにただ聞き伝え位でやって居る者が多いのである。



旧チベットは英国植民地だった同時代のインドと比べても近代化が遅れていた


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第百八回 チベットと英領インド」

国民の感情 ですからダージリンに居るチベット人は皆インド政府の処置に満足して、不平をいわないのみならず、実際心服して英政府のために働きたいという考えをもって居る者が沢山ある。もちろん半期あるいは一年位滞在して居る者にはそんな考えを持って居る者はないけれども、三年、五年と住むに従って、どうもイギリス人の遣り方は立派である、公明正大である、慈悲深い遣り方である。こういう政府の下に属するのは非常に結構である。チベットではちょっと盗みをしても、手を切るとか眼玉を抉(くじ)り取られるとかいうような残酷な刑に処せられるけれども、英領インドではどんな重い罪を犯しても、それで死刑に処せられるということはまずない位で実に寛大な刑法である。

道路なども非常に立派なもので、神の国の道のように出来て居る。また病気になっても施薬病院があって結構な薬を銭も取らずにくれる。それから貧苦に迫って食物がなくなればまた相当の補助をしてくれる。こんな結構な政府はどこにもない。チベットでは食物がなくなれば誰もくれる者がないから、餓死をしなくちゃあならんというて、一度足をダージリンに入れたチベット人の誰もが去るに忍びない心を起すです。

もちろんチベットにおいて沢山財産のある者は、いったんダージリンに来たからといって永住する気にもならず、帰る者も沢山ありますけれども、その人間でもやはり英領インドの道路、病院、学校等の完全なる設備を見て大いに感服して帰って行く。なおチベット人の眼を驚かすに足るものは、鉄道、電信、電話その他諸種の器械類の敏速なる働きを見て大いに仰天して、これはとても神の知識でなくては出来得ない事である、という具合に感じて帰って行く者が多いです。

国へ帰ったところで彼らは政府の人に対してそんな事はいえないけれども、内々は大いに英領インドを賛嘆して喋々(ちょうちょう)と吹聴(ふいちょう)するものですから、チベット人は我も我もと先を争うてインドへ出掛けて来て、相当の利益を得ては国へ帰って吹聴するという有様で、今日では民間のある部分すなわち運送商売その他商業上の用向きで出掛けて来る村々の者は、もはやインド政府に対して悪感情を懐(いだ)いて居らない。

しかし表面(うわべ)は全く悪感情を懐いて居るように見えてあるです。なぜならばもしイギリス政府がよいとか何とかいいますれば、じきにその事をチベット政府に告げ口する者があるとその人は恐ろしい刑罰に処せられるから、内々は英国に心を寄せて居りながらも表向きは同情を表するどころではない、大いに憎んで居るかのようにやって居るです。

その外にまだチベット人民が大いに心を寄せて居る次第はです。もし我が国が英領インドの下に属すれば、我々人民は法王政府の酷虐(こくぎゃく)なる支配を免れて、現にインド人の受けて居るような便宜を得らるるであろう、またインド政府は金が沢山あるから、我々も自然金を得て何事も不自由なく暮せるであろう、という考えを持って居る者も沢山ある。それらは中等および上等社会の人民にも随分あるです。ごく下等な者に至ってはそういう考えも持って居りませんけれども、折には人の言う事を聞き伝えて、内々そんな事を呟(つぶや)いて居る者もある。



旧チベット人は極めて怠惰で「五百人居れば四百五十人までは確かに屑」


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第七十九回 僧侶の目的」

チベット人は外見は温順(おとな)しくってよく何もかも考えるですが、一体勉強の嫌いな質でごくごく怠惰(たいだ)な方で、不潔でくらすのも一つは怠惰なところ(〔そこ〕)から出て来たようにもあるです。まあチベット人の坊さんで普通の生計をして居る人ならば冬は本堂にお経を読みあるいは茶を飲みに行く。その間は自分の舎の前の日当りのよい所に裸体(はだか)になって、背中を亀の甲のように乾して居る。そうして羊の毛織りの端くれで鼻汁(はな)をかんで、その鼻汁をかんだ切布を頭の上に載せて乾しながら、うつうつと坐睡(いねむ)り好い心持に暖まって居るざまというものはないです。

年寄ならまだようござりますが、随分若い者がそういう事をやって居るのを見てもチベット人の怠惰であるということが分る。そこへ来てはモンゴリヤ人はそんな事をやって居る者はない。わざわざ遠い所から出て来たのは勉強が目的であるから、非常に勉強するのみならず、問答などの遣り方もなかなか劇(はげ)しい。大抵五百人居ればまず四百人までは普通善い方の人になって百人ぐらいしか屑(くず)は出ない。ところがチベット人は五百人居れば四百五十人までは確かに屑の方で、かの壮士坊主なんかというのもチベット人が主なのです。カムの人にもモンゴリヤの人にも壮士坊主は稀であります。



旧チベット社会を表す諺(ことわざ)、「人殺さねば食を得ず」


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第三十回 人里に近づく」

けれどもその人たちは強盗本場の国から出て来たのです。その本場というのはどこかというとカムの近所でダム・ギャショの人であるということを聞きましたから少しく懸念も起りました。何故ならばその辺の諺にも

人殺さねば食を得ず、寺廻らねば罪消えず。人殺しつつ寺廻りつつ、人殺しつつ寺廻りつつ、進め進め

そういう諺がある国の人でなかなか女だって人を殺すこと位は羊を斬るよりも平気にして居る位の気風でありますから容易に油断は出来ない訳です。けれどももうそこに着いた以上は虎口(ここう)に入ったようなものですから逃げ出そうたって到底駄目だ。殺されるようなら安心してその巡礼の刀の錆(さび)になってしまうより外はないと決心して泊りました。



旧チベットのラサ府は糞尿にまみれた不潔の都だった


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第九十回 不潔の都」

けれどもかえってラサ府の市街の道の悪い事といったら仕方がない。高低の多い所で町の真ん中に深い溝が掘ってある。

溝は大小便の溜池 その溝にはラサ婦人のすべてと旅行人のすべてが大小便を垂れ流すという始末で、その縁には人糞(じんぷん)が行列をして居る。その臭い事といったら堪らんです。まあ冬は臭いもそんなに酷(ひど)くはございませんけれども、夏になると実にその臭いが酷い。それで雨でも降ると道のどろどろの上へ人糞が融けて流れるという始末ですから、その臭さ加減とその泥の汚い事は見るから嘔吐(おうと)を催すような有様。一体ラサというのは神の国という意味で、いわゆる仏、菩薩すなわち外護(げご)の神様の住処(すみか)で非常に清浄な土地であるというところから神の国という意味の名をつけられたのである。けれどもその不潔なところを見ると、確かにパンデン・アチーシャがいわれたごとく糞喰(くそくら)い餓鬼の都としか思えない。実に不潔なものです。

私はシナの不潔をしばしば耳にしましたけれど、恐らく糞の中、糞の田圃(たんぼ)を堂々たる都の道路として歩くようなそれほど不潔な所はあるまいだろうと思います。もちろんラサ府には糞食い犬が沢山居りますけれども、なかなかその犬だけでは喰い切れない。犬も糞の新しいのは悦んで喰いますけれども古いのは喰わない。だから古い奴が沢山残って行く勘定になるのです。



旧チベット人は大便をしても尻を拭わず、犬に人糞を喰わせていた


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第五十八回 不潔なる奇習」

卑陋(びろう)至極(しごく) 食器を自分の着物で拭く位の事は平気なもの、卑陋(びろう)至極(しごく)ではありますが彼らは大便に行っても決して尻(しり)を拭(ぬぐ)わない。またインド人のごとく水を持って行って左の手で洗うというような事もしない。全く牛が糞(ふん)をしたように打棄(うっちゃ)り放し。しかしこれは少しも奇態な事ではないので、上は法王より下は羊追いに至るまでみなその通りですから、私のように隠れ場へ紙を持って行くというような事をしますと大変に笑われるのみならず不審を抱かれるです。子供などがそれを見付けますと大笑いに笑って向うの方に逃げて行ってしまう。実にこれには困りましたけれど、さてそれかと言ってどうも隠れ場へ行ってそのまま出て来ることは出来ないから、なるべく隠して紙を持って行ってどうにか向うの知らん中にうまく始末をして厠(かわや)の中から出て来るという始末。これには実に閉口しました。それも家のあるところでは便所があるですが、テントのところでは便所というようなところはない。

便所は犬の口 なんです。どうもその西北原でテントの端(はた)でお便(ちょうず)をして居りますと恐ろしい犬が四、五疋取巻いて横で見物して居る。気味の悪い事と言ったら始めはなかなかお便(ちょうず)が容易に出ない。けれどもそれも自然と慣れるです。そうしてこっちが其便(それ)を済まして来ますと犬は先を争うてその人糞(じんぷん)を喰いに来る。だから西北原の内には便所はないけれど人糞の転がって居るような事もない。



旧チベット人は高等ラマ僧の糞尿を薬と称して喰わされていた


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第八十七回 奇怪なる妙薬」

その薬といえば一つ思い出しましたがチベットには

奇々妙々の薬 がある。その薬の本来を知った者は恐らくチベット人を除く外誰も飲むことが出来ぬだろうと思います。それはチベット法王あるいは第二の法王というような高等なるラマ達の大便は決して棄てない。また小便も決して棄てない。大小便共に天下の大必要物である。その大便は乾かしていろいろな薬の粉を混ぜて、そうして法王あるいは高等ラマの小便でそれを捏(こ)ねて丸薬に拵え、その上へ金箔(きんぱく)[#ルビの「きんぱく」は底本では「きんばく」]を塗るとかまた赤く塗るとかして薬に用いますので、この薬にツァ・チェン・ノルプー(宝玉)という奇態な名を付けます。

それは決して売り出すのではない。なかなかそれを貰うことさえ容易に出来ません。まずよい伝手(つて)がありお金を沢山上げてようやく貰いますので、貰ったところでチベット人は非常な病気になったとかあるいは臨終の場合に其薬(それ)を一つ飲むのです。それで快くなればその有難味が利いたといい、たといそれがために死んだところが、チベット人は満足して「誠にありがたい事だ。ともかく宝玉を飲んで死んだからあの人も定めて極楽に行かれるだろう」といって誉(ほま)れのように思って居ります。実に奇々妙々の風俗で、チベット国民が実に汚穢(おわい)極まるということも、こういう事によっても知り得ることが出来るのでありましょう。

しかしこういう材料で宝玉が出来て居るなどということは、一般人民はほとんど知らないので、この薬は法王が秘密の法で拵えたごくありがたいものであるということを知って居るだけで、その薬の真面目(しんめんもく)のいかんは法王の宮殿に出入する官吏あるいは官僧、その外それらの人々から聞き伝えて、いわゆるチベットの事情に通じて居る人間が知って居るというだけでございます。



旧チベット人は「糞を喰う餓鬼」だった


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第三十六回 天然の曼荼羅(まんだら)廻(めぐ)り(一)」

チベットの高原地で石を集めて家を建てるということは非常に困難な事でかつ大金を要する事であるけれども、ここはプレタプリー(餓鬼(がき)の街(まち))といって、昔パンデン・アチーシャがインドから真実仏教の面目を伝えてこの国に来られた時、この地に来てプレタプリー即ち餓鬼の街という名を付けられたです。こりゃどうも余程面白い名ですが、一体チベット人は

糞(ふん)を喰(く)う餓鬼 とも謂(い)うべきもので、まあ私の見た人種、私の聞いておる人種の中ではあれくらい汚穢(おわい)な人間はないと思うです。もちろんそういう習慣は昔も今も変らず、パンデン・アチーシャが来られた時分にも今の通り汚穢な有様であったから、つまり糞を喰う(〔飲食物なき〕)餓鬼の国の街であるという名を命(つ)けられたものと見える。それをチベット人はインド語の意味を知らんものですから、パンデン・アチーシャは我々の街に誠に尊(たっと)い名を命(つ)けて下すってありがたいと言って誇って居るです。



旧チベット人は人間の死体の切れ端を麦焦しに混ぜて喰っていた


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第八十六回 驚くべき葬儀」

食人肉人種の子孫 さてその死骸を被(おお)うて行ったところの片布(きれ)その他の物は御坊(おんぼう)が貰います。その御坊(おんぼう)は俗人であってその仕事を僧侶が手伝うのです。骨を砕くといったところがなかなか暇が掛るものですから、やはりその間には麦焦(むぎこが)しの粉も食わなければならん。またチベット人は茶を飲みづめに飲んで居る種族ですからお茶を沢山持って行くです。ところが先生らの手には死骸の肉や骨砕(ほねくず)や脳味噌などが沢山ついて居るけれども、一向平気なもので「さあお茶を喫(あが)れ、麦焦(むぎこが)しを喫(あが)れ」という時分には、その御坊(おんぼう)なり手伝いたる僧侶なりが手を洗いもせず、ただバチバチと手を拍って払ったきりで茶を喫(の)むです。その脳味噌や肉の端切のついて居る汚い手でじきに麦焦しの粉を引っ掴んで、自分の椀の中に入れてその手で捏(こ)ねるです。

だから自分の手について居る死骸の肉や脳味噌が麦焦しの粉と一緒になってしまうけれども平気で食って居る。どうも驚かざるを得ないです。あまり遣り方が残酷でもあり不潔ですから「そんな不潔な事をせずに手を一度(いっぺん)洗ったらどうか」と私がいいましたら「そんな気の弱いことで坊主の役目が勤まるものか」とこういう挨拶。で「実はこれがうまいのだ。汚いなんて嫌わずにこうして食って遣れば仏も大いに悦ぶのだ」といってちっとも意に介しない。いかにもチベットという国は昔は羅苦叉鬼(ラクシャキ)の住家で人の肉を喰った国人であって、今の人民もその子孫であるということですが、成程羅苦叉鬼の子孫たるに愧(は)じないところの人類であると思って実に驚いたです。



旧チベット人は体中が垢で真っ黒で、垢を麦焦しに混ぜて喰っていた


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第十一回 山家の修行」

汚穢(おわい)の習慣の修練 チベット人のごとくこの辺の人たちは非常に不潔であるいはラサ府の人間よりもこの辺の人間の方がなお汚穢(おわい)です。ラサ府では折々洗うことがありますけれどもこの辺では私が一年ばかり居った間に二度位洗うのを見た位のものです。それとてもすっかり身体を洗うのでなく顔と首筋を洗うだけですから、身体(からだ)は真っ黒で見るからが嫌に黒く光って居ります。よく洗えば随分色の白い人もあるですが、もしもこざっぱりと洗って綺麗な顔をして居るとあれは不潔の女であるといって笑うです。ここで私はチベットにおいての汚ない事に堪える習慣をよほど養いました。もしここで充分その汚ない事に慣れなかったならば私はチベットに行ってよう物を喰い得なかったかも知れぬ。

ここでもやはり手洟(てばな)をかんだ手で直(じか)に椀を拭(ぬぐ)ってその椀に茶を注いでくれます。それを嫌がって飲まぬとむこうで忌(い)み嫌(きら)いますから忍んで飲まねばならぬような始末。実際はそれよりも酷い事があって実に言うに堪えない、見るに堪えない汚ない事をやります。折々はその習慣に慣れようと思いましてもいかにも不潔で窃(ひそか)に自分で茶椀なりあるいは椀なりを洗って喰うような事もあります。



出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第五十八回 不潔なる奇習」

それだけではない。彼らは元来生れてから身体(からだ)を洗うということはないので、阿母(おっか)さんの腹の中から出て来たそのままであるのが沢山あるです。都会の人士はまさかそうでもないが、田舎にいたる程洗わぬのを自慢として居る。もし顔を洗ったり手先を洗ったりすることがあれば大いに笑ってその取締のない事を嘲(あざ)けるのです。そういう訳ですから、白いところと言ったらば手の平と眼の玉とである。ほかは全く真っ黒である。

もっとも田舎人士の中でもその地方の紳士とか僧侶とかいう者は顔と口と手だけは幾分か洗うものですから、そんなに汚なくもありませんけれども、やはり首筋から背中、腹に至っては真っ黒なんです。アフリカ人の黒いのよりもなお黒いのがある。で、手の平がなぜ白いかと言いますに、向うでは麦粉を捏(こね)る時分に手でもって椀の中でその麦粉を捏る。であるから手の平に付いて居る垢(あか)は麦粉の中に一緒に混って入ってしまうんです。それで手の平には垢がない。まあ垢と麦焦(むぎこが)しとを一緒に捏て喰うといううまい御馳走なんです。そういう御馳走をです、黒赤くなった歯糞(はくそ)の埋(う)もれて居る臭い口を開(あ)いて喰うのです。それを見ただけでも随分胸が悪いのです。



旧チベットでは垢にまみれていればいるほど福徳と信じられていた


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第五十八回 不潔なる奇習」

で、生れてから身体を洗わないという理由(わけ)はどうかと言いますと、洗うと自分の福徳が落ちると言うのです。妙な考えを起したもので、もっとも中央チベットではそれほどにも言いませんけれども、辺鄙(へんぴ)なヒマラヤ山の北方のチベット人などは実に甚だしい。

垢(あか)の多少が縁談の条件 まず嫁を取る時分に向うの娘はどういう顔をして居るかと言いますと、どうも垢(あか)で埋もれて真っ黒けになって白いところは眼だけである。手先でもどこでもが垢でもって黒光りに光って居る。それからその着物と言うたらば垢とバタでですな(〔もって〕)、黒く漆(うるし)のごとく光って居ると、こう言うとその娘の福相を現わして居ることになる。もしこの娘が白い顔をして居るとか手先や顔でも洗って居るとか言うような事を聞きますと、そんな娘は福が洗い落されてしまって居るから、それはお断りだと、こういう訳。それは男ばかりでなく女が聟さんを選ぶにも、やはり垢の多少をもって福の多少を判断して、それで嫁に行ったり聟を取ったりするというような始末である。実にこれらの事はその地にいたって実際を見ない者の想像以外で、話だけ聞いては私共でさえ始めは信じなかったのですが、いろいろの地を経て来て始めてその前に聞いた話の実説であることを確かめた訳です。

中等以下の者は全く着替がないですから、着物なども古くなると垢でぽろぽろに千切(ちぎ)れてしまう。それから人の前でもどこでも自分の着物の裾裏(すそうら)をまくって涕(はな)をかみ、そうして其涕(それ)をうまくすり付けてしまう。余り涕(〔汁〕)が多いと筒(つつ)っ袖(ぽ)の方にもそれをすり付けて置くんです。で、裾の方が涕の壁のように堅くなって、その上で鼻をふくことが出来なくなりますと、今度は膝の辺でまたふきますですから、着物は涕とバタと垢との三つの壁になって居る。これらは中等以下の社会の人に多い。しかし中等以上はさすがにそれほどにもない。垢(あか)は沢山付いて居っても幾分か綺麗なところがある。ことに僧侶にいたっては顔を洗い手を洗い着物も綺麗にしなくてはならんと言って、しばしば僧官から戒められますから、そりゃ幾分か綺麗なんですが、それとてもいろいろ種類があるです。これはラサ府に入って後の実地について充分に話することにいたしましょうが、何にしても、そういう人に冊(かしず)かれてお茶を戴き御膳をよばれるというのですから、随分嫌な事は沢山あります。



旧チベット人には景色を楽しむという文化すらなかった


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第百三十四回 途上の絶景と兵隊町」

道のあちらこちらにはパル(匂いある黄色の皐月(さつき)花)、スル(同じ赤皐月(あかさつき))その他いろいろの草花に雫(しずく)の溜って居る様は、あたかも璧(たま)を山間に連ねたかのごとくに見えて居ります。だんだん山間の溪流に沿うて降って行きますと、奔流(ほんりゅう)の岩に激して流るるその飛沫(とばしり)が足もとに打付けるという実に愉快なる光景であります。そういう面白い光景も不風流なるチベット人には……呟(つぶや)く種とほかならぬ。

「どうもこんな所で雨に降出されては困る」といって、私の下僕(しもべ)は非常に怒って居りまして「天道様があるならば日和(ひより)にしてくれればよいのに困ったものだ。荷物が湿(しめ)って重くなって仕様がありゃあしない。どこにも今夜泊る所があるのではなし、困ったな」と非常に呟くのは無理はないです。苦しいには相違ないが、もし景色を愛する心があったなればその苦しみは忘れたろうと思う。けれども彼らには景色を愛する観念は少しもない。また奇態にチベット人は景色の趣味を持って居らぬ。石磧(いしかわら)や禿山(はげやま)の中で生れた人間が多いのですから景色の趣味を解することが出来ぬと見える。絵でもチベット固有の景色を描いたものは一枚もない。もしあればその絵は必ずシナの絵を真似て書いた位のもんです。

ですから私の下僕(しもべ)などはそういう景色のよい所へ来ても、ヤクの糞(ふん)の粒々(つぶつぶ)行列して居る野原へ来ても一向平気なものです。雨の降ってるのも自分の着物の濡れるのも打忘れて面白くて堪らぬ。私がもし絵を書くことが出来て、この景色を描いて持って帰ったらさぞ人が喜ぶだろう。写真機械があってこういう景色を写して行ったら、どんなに人が喜ぶだろうかと思うほど惜しくて堪らぬような景色。時々刻々眼先が変りだんだん進んで来ますと、ヒマラヤ山中の名物であるロードデンドロンというその色の鮮(あざや)かさといったら何と形容してよいか分らぬほど。美しい花(小木)が千載(せんざい)の古木と突兀(とっこつ)[#ルビの「とっこつ」は底本では「とっごつ」]たる岩の間に今を盛りと咲き競うて居る。



旧チベットが軍隊を持たなかったというのは嫌中ネトウヨの嘘


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第百十八回 チベットの兵制」

常備兵五千人 次にチベットの兵制について述べます。ただいま常備兵としてあるのはほとんど五千人足らずであります。実際の名目は五千人ですけれど、私の観察では少し足らないように思う。チベット人口六百(〔五百〕)万人に対する五千人の兵士は実に少ない。外国に対する事はおろか自分の国の内乱に対しても、よくこれを平らげて国を安らかに保つということは出来得ないように思われる。



※管理人注:

嫌中ネトウヨ曰く「チベットは軍隊を持たなかったから中国に侵略された。日本の反日左翼は平和主義がどうこう言いながら日本をチベットのように軍隊を持たない国にして中国に侵略させるつもりだ」だそうだが、そんなことはない。実際には旧チベットは上記のように軍隊を持っていた地域であるし、何かおかしなことがあるとすればチベット軍の兵士の数が少なく装備も旧式だったことである。

そもそも中国中央政府がチベットにしたことが違法な侵略行為ではなく合法的な国土の統一であることについては「
中国のチベット平和解放は侵略ではない」で指摘している通りである。



チベット人以外の民族がチベットに長期滞在していると血を吐くことがある


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第二十二回 月下の坐禅」

それからその坊さんはもと来た道に引き返し私はその荷物を背負ってだんだんテントのある方へ指して進んで行ったです。なかなかテントは見えない。ところでその時は疲労がだんだん烈(はげ)しくなって仕方がなくなって来たです。心臓病を起したのかどうしたのか知らんが息は非常に急(せわ)しくなって来まして少し吐気(はきけ)が催しました。こりゃいけないと思ってそこへ荷物を卸しますと背中の方にも荷物を背負ったためにすりむくれが出来ましてその痛いことと言ったら堪らないです。その痛みよりも今吐(は)き出しそうになって居る奴が非常に苦しくって何か胸に詰って来たようになったからじきに宝丹(ほうたん)を取り出して飲みました。

無人の高原に血を吐く するとドッと一つ血を吐きました。こりゃ大方空気の稀薄の所ばかり長く通ったものですから、こういうことになったのか知らんと思いました。私は元来心臓病はないはずだがなぜこういう風に心臓の加減が悪くなったか知らんと疑いましたが、これもやはり空気の稀薄の加減であろうと察したです。もっともチベット人は空気の稀薄に堪え得られるだけの非常に強壮な肺を持って居るです。私どもの肺はチベット人の肺に比すると大方半分しかなかろうと思います。ですから肺が自然と圧迫されるのか突き出すのか分りませんが、非常に胸膈(きょうかく)が苦しくなって来ましてどうもして見ようがなくなった。で、まあ大病というような形状を現わして来た。こりゃうかうか進んで行くとつまりテントの在る所に達し得ずして死んでしまう。



出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第四十七回 公道を進む」

血塊を吐く ところがそこに滞在して居る中に私の身体に病気のような非常な変化が起って来た。ある時外へ散歩に出て居りますと、何か喉の所に塊が滞(とどこお)って居るようであるから何心なく吐いて見ると血の塊を吐き出したです。ドドドッと一遍に吐き出した血は鼻から口から止め度もなく流れ出したです。はてこりゃ肺病になったのじゃあないかしらん、私は元来肺が強いつもりであったがなぜこんな病気を患うのか知らんという考えも起ったですが出血はどうも止らない。しかしそういう時にジーッと静かにして居られますのが前に禅宗のお宗家(しけ)様から

頭を叩かれた功徳 であって実に苦しくなる程余計静かになって来る。そこで呼吸の内外に通ずるのを余程阻害(そがい)して行くような心持をもってじっと草原の中に坐り込んで居ると大分に血の出ようが少なくなった。漸(ようや)くの事で止りましたが、その時に出た血がどれだけあったかその辺は真っ赤になって血が沢山溜って居りました。どうしてこんなに沢山血を吐いたものか知らんと、自分ながらびっくりして顔も青くなって帰って来ますとギャル・プンの長者が、あなたの顔が大変青いがどうしたのかという。その次第を告げますと、そりゃあなた何だ、シナの人などがこの辺に出て来るとどうもこの辺は息気(いき)(空気の稀薄な事を知らぬゆえ)が悪いもんだから血を吐くということを聞いて居る。それには良い薬があるからといって薬をくれたです。

そこで私も経験ある老人に教えられて始めて肺病でない、成程空気の稀薄な土地を長く旅行したためにこういう害に遇(お)うたのかと漸く安心致しました。けれどもまた三日ほど経ってまた血を吐いたです。今度は大分少なかった。



※管理人注:

ダライ集団は「チベットに漢族が大量に流入してチベット人が少数派に追い込まれている」などと主張しているが、それは嘘である。健康体の日本人であった河口がチベット滞在時に何度も血を吐いていることを見ればわかるように、生まれつき強靭な肺を持つチベット人ならともかく、それ以外の民族なら並の人間では高地の環境に適応できずに命を落とす危険性があるので、とてもチベットで長期間暮らすことなどできないのである。

少なくとも中国の人口調査ではチベット平和解放から57年が経過した2008年の時点でも
チベット人口の9割がチベット族であるし、並の体力をした漢族ではチベットで暮らしていくことなどできないのでチベットでは依然として漢族人口がチベット族人口を上回っていることなどあり得ないと見て間違いない。



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