外国人が記録した旧チベットの実態


西川一三(1918 - 2008)

チベット問題の第三者である昔の外国人が目にして記録した、中国中央政府による1951年の平和解放以前の旧チベットの実態。チベットの独立を叫ぶすべての者たちは、中央政府に解放される前のチベットがどれほどひどい社会であったのかを知らなければならない。中央政府はまさに文字通りチベットの人々を劣悪な環境から解放し、救ったのである。

特に1940年代にモンゴル人の僧侶に成り済ましてチベットに潜入した日本軍のスパイである西川一三(にしかわ かずみ、1918 - 2008)の著書『秘境西域八年の潜行』にある旧チベットに関する記述は必見である。同書には旧チベットの恐怖政治についても書かれており、西川によれば旧チベットの支配層は中国本土の支配層よりも危険で恐ろしく、旧チベットよりも中国のほうが住みよい社会であったという。

西川は日本軍のスパイであるため彼にとって中国は敵国であり、当時の日本では当たり前だったとは言え中国を「シナ」と呼んでいるので当然ながら「媚中左翼」などではない。当然ながら西川の著書は中国がチベット問題の政治宣伝のために出版した本というわけでもないので、これはまぎれもなく客観的な第三者による旧チベットの実態の記録である。

日本人の僧侶である河口慧海(かわぐち えかい、1866 - 1945)による旧チベットの記録については「河口慧海が記録した旧チベットの実態」を参照のこと。



目次
1. 西川一三が記録した旧チベットの恐怖政治
2. 西川一三が記録した旧チベット社会の道徳崩壊
3. 古いチベットの政教合一制度下のチベットの人権
4. ハインリヒ・ハラーですら知っていた旧チベットの封建農奴制



西川一三が記録した旧チベットの恐怖政治


出典:西川一三『秘境西域八年の潜行 抄』(中公文庫BIBLIO)の「聖地ラサの裏街道」

そして政府の首脳部である彼らは、小作人、民衆の利益のために働くということより、どうして彼らから少しでも多く搾取するか、ということしか考えないのである。また世襲制度で、貴族出身であれば、どんなぼんくらでも高官につける彼らは、一般民衆やラマの中に自分より学問、思想方面に傑物が出れば、不法、不道義でも、理由もなく権力を以て圧迫し、葬ろうと努める。

私の在蔵中、一番怖れたのはこの不法を不法としない、不道義を不道義としない、封建的なチベット政府の政治であった。最初、シナ官憲に捕われるよりは、チベット官憲に捕われた方が安全だという気やすい考えを持っていた。それもしだいに、いくらこちらが道理を通しても受け容れられず、またこちらが正しいことでも、それを受け容れようとしない無法者のようなチベット官憲は、シナ官憲に捕われる以上に危険であることを、感ぜずにはいられなくなってきたのだ。これは政府だけでなく、民間でも徳より金で、シナの社会の方が、よほど住みよい、ということに気付かされた。また、どこの国でも同じであるが政府内の貴族、高僧の指導者間にも派閥があり、相互に時の権力によって相手方を、闇から闇へ葬る、醜い闘争も常に繰り返されていたのである。

この政府の高官達と共に、民衆を護ってくれるべき兵隊も、民衆にとっては怖ろしい存在であった。一度チベットに暴動が起これば、民衆は暴動より、これを鎮圧に出動した国の兵隊から受ける被害が大であることを昔から知っている。兵隊達は、暴動の鎮圧はどうでもよく、どうにかしてこの際自分の私腹を肥やそうということに汲々としているからで、民衆は、養っている兵隊が味方であるのか、敵であるのか、分からない有様なのである。



西川一三が記録した旧チベット社会の道徳崩壊


出典:西川一三『秘境西域八年の潜行 抄』(中公文庫BIBLIO)の「聖地ラサの裏街道」

夕暮れどきの環状路はラマ、尼の読経の声で湧き立ち、ラサはラマ教徒のメッカ、聖地としての雰囲気を十分に漂わせている。入蔵困難な神秘境として、紀行文などからも、ラサが極楽浄土のような聖地、そこに住んでいる人々も、さぞ仏のような心根を持った人々だろうと、想像することだろう。確かにこの絢爛たる寺、狂信的な人々の姿は、一応外見だけは聖地らしい印象を人々に与えている。

しかし私はこの外見だけは仏教都らしい信仰に満ちあふれていることを肯定するが、その内容、中身は、悲しいことにそのまま、肯定することはできないのである。ラサほど道徳が乱れ、風紀が紊乱し、ただれきった汚い街は、世界にもないだろう。聖地どころか、泥沼のような街であるといいたい。

チベット一般の国民は、ラマ教すなわち仏教を信ずることによって生きている。香の匂いは終日部屋に満ち、朝夕諸仏諸菩薩像の前に額ずき、すべて仏教に関係を持たぬ話はひとつもない家庭に育った彼らは幼いときから、なにごとも自業自得、自分のした悪事は、自分で苦しい思いをして償わなくてはならぬ。また自分のなした善事の結果、すなわち快楽幸福も、また自分が受けられ、そしてこの因果応報は未来永劫に続くものであり、仏達の心もまた死んだからといって決して滅するものではない。再びこの世に生まれ変わって来るものであることを、お伽噺として父母から吹き込まれている。

こうしてラマ教を信仰することによって、自分の犯した罪は償われ、快楽幸福が取得せられ、寺、僧侶に供養すること、着飾って灯明鉢を手にして仏殿に額ずくこと、あるいは米搗きバッタのようにはいつくばって右曉、叩頭を続けることが最高の信仰の表現だと教えられ、信じられている。彼らの仏教の信仰は、ただ形式的信仰にほかならないのである。仏教の根本原理である人としての行ない、進まなければならぬ道への修養、自己を磨こうなどということは微塵もない。だから彼らの間には、道徳などひとかけらもない。

彼らの性情は、表と裏の両極端を持っている。権力、財力の強い者にはまったく猫のように温和しく服従するが、弱者とみるや、まったく正反対の性質を以て遇する。臆病で羞恥心が強く、控え気味に見えるが、物凄く積極的行動に出ることを辞さない。慈悲同情の念に溢れているようであるが、その裏には、物凄い敵愾心と復讐心が充ちている。頑固で自尊心が強いが、追従と模倣を拒まない。謙譲心に富み儀礼に篤いが、甚だしく卑屈である。悠長のようで短気である。排他的根性と共に独善感が強いが、一面妥協性を失うことなく、開放的で迎合主義である。いわば彼らは、猫の眼のような性質を持っている。この猫の眼が、強者と弱者に対するときは必ず変わるのである。これは荒涼たるチベットの環境と、根強い封建制度のお国柄、「井戸の中の蛙」の環境に置かれた自然と指導者、さらに昔から東にシナ、西に英印にはさまれた国際関係からもきているようである。



古いチベットの政教合一制度下のチベットの人権


記事の魚拓

発信時間: 2008-04-28 | チャイナネット

人権は社会経済の発展、文明の進歩と関係があるばかりか、階級性をもつものでもある。古いチベットでは政教合一の封建的な農奴制度の支配のもとで、すべての人に人権がないわけでなく、人権のある一部の人の数が非常に少ないだけであった。その時、人口の5%を占める非宗教的貴族、上層の僧侶と官吏たちはたいへんその体制下の「人権」に満足し、彼らは贅沢三昧でみだらであったばかりでなく、権勢をかさに着ていばり散らし、人口の95%を占める農民・牧畜民の死活を決める権力を握っていた。

チベット族の文字、漢族の文字による史料がこれらのことをたくさん記載しているばかりでなく、チベットに行ったことのある外国人さえも古いチベットの人権状況の極端な劣悪さを感じ取っていた。

ベルというイギリス人は『13世ダライラマの伝記』の中で、「黄色の帽子をかぶった僧侶としてのラマ僧、黒い頭の非宗教徒の俗人たちの支配者」としての13世ダライラマは「名実ともの独裁者であり、……彼はヒトラーとムッソリーニに勝るとも劣らない。彼は彼ら(ヒトラーとムッソリーニ)のように弁舌の才にたけてはいなかったが、それよりも無限のラジオ放送(たとえラジオ放送という設備があっても)を利用して地位を保つことはできないが、彼は弁舌の才あるいはラジオ放送よりずっとひどいものがあり、彼は現生と来世の中で賞罰を行い」、お前たちを来世にブタまたは人間に転生させ、高官またはラマの高僧に生まれ変わらせることができるからである、と述べている。

エドモン・カンドラ氏はその『ラサの真相』という著書の中で、「ラマ僧は皇帝の父のようであり、農民は彼らの奴隷である。……少しも疑いなく、ラマ僧は精神恐怖の手段を採用して彼らの影響を保ち、その権力を自分たちの手中に握り続けた」と述べている。

チャールズ・ベル氏は『チベット誌』の中で、「チベットは今なお封建時代にあり、その貴族は大きな権力を握り、大きな勢力を持ち、貴族と僧侶が共に政府の重要な部署につき、その財産の巨大さも寺院に勝るものである。貴族は小作農に対し、封建官吏の権力を行使することができ、……役畜を没収し、罰金を課し、こん棒による刑を施行し、短期拘禁を行い、及びその他のすべての処罰をいつでも行うことができる」と述べている。

デビッド・マクドナルド氏はその『チベットの写真』の中で、古いチベットの刑罰は非常に残酷で、「その最も普通の刑法の中では、すべての死罪に処せられたものは、皮袋にくるまれて川に投げ込まれ、それが水死して沈むのを待ち、……それがすでに死んだことが分かれば、その死体を皮袋から取り出して解体し、その四肢と躯体を川に投げ込み、川面に浮いたまま流れてしまう……」と書いている。

フランスのチベット学学者のアレクサンダー・ダビ・ニール女史は彼女の『生まれ変わった新中国に直面している古いチベット』の中で、古いチベットでは、あらゆる農民はすべて一生借金を背負う農奴であり、彼らはまた過酷で雑多な税金と重い役務に苦しめられ、「人間のすべての自由を完全に失っていた」と述べている。

ツォイビコフ氏は『聖地チベットにおける仏教の信者たち』の中で、「強大な僧侶勢力はすべてを管理しているが、しかし僧侶の地位も高低の違いがあり、天国と地獄のような異なる暮らしをしている。たとえ寺院の中でも、普通の僧侶もいつでも刑罰、ひいては死刑に直面している」と書いている。

人々は上述のことからダライラマグループが描き出した「シャングリラ」の未来図を見抜くことができるではないか?古いチベットは明らかに農奴主たちの天国、農奴たちの地獄であった。



ハインリヒ・ハラーですら知っていた旧チベットの封建農奴制


孫引きになるが、「
ダライ・ラマ14世時代のチベット2」(魚拓)という記事から引用する。

この当該記述が載っている、ハインリヒ・ハラー『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(角川文庫、1997年)という本は、ハリウッド映画化もされた有名な反中本である。
今回は、下の参考文献から興味深いことをあれこれ紹介する。著者は、ダライ・ラマ14世の大親友で家庭教師でもあったオーストリア人探検家である。生没年、1912年-2006。

○「キュイロン周辺にたくさんある寺院のひとつから黄金の蜀台を盗んだ男の話を聞いたことがある。・・公衆の面前で男の両手が切断され、・・生きたまま、濡れたヤクの皮に縫いこまれた。それからヤクの皮を乾くに任せ、あげくのはては男を奈落の谷底に投げ落としてしまったのだという」(参考文献1;p.112)。

○「チベットの僧職支配は絶対的で、まさに専制独裁政治を思わせるものがある。・・僧侶たち自身は利口なので、自分たちの絶対の権力を過信するようなことはないが、もし仮にそういうことに疑惑を表明するものがいれば、罰を受けることになるであろう」(同p.113)。

以上の2つは、著者が1944年にチベットに到着し、1946年にラサに着くまでの話である。以下はラサ到着の1946年からチベットを出る1951年までの話である。ラサに着いた時、ダライ・ラマ14世は11才だった。

○「祭の場ではそのとき、とりわけ多くの中国人が目についた。中国人はチベット人と同じ種族に属しているのに、チベット人のなかにいるとすぐにそれと分かる。チベット人はそれほどはっきりした細目ではなく、それに顔の形がよくて、赤い頬をしている。金持の中国人の服装はすでにヨーロッパ風の服装に変わっていることが多く、その上中国人は−この点ではチベット人ほど保守的ではない−眼鏡をかけている。たいてい商人で・・」(同p.249-250)。

(中略)

○「貴族たちの農場はたいへんな広さで・・どの所有地にも何千人もの農奴がついている。農奴たちは自分たちの食い扶持にわずかの畠をあてがわれていたが、その他に領主のために一定期間働かねばならない」(同p.369)。

(中略)

参考文献:
1.「セブン・イヤーズ・イン・チベット」(ハインリヒ・ハラー/1997/角川文庫)
ハインリヒ・ハラーはダライ・ラマ14世の師であった人物で、大の反中主義者である。そのハラーですら、旧チベットの公開処刑、僧侶による専制独裁政治、チベット人が中国人と同じ種族であること、そして封建農奴制の実態について認め、自著に記録しているのである。

これは反中主義者が提示するダライ集団の側に不利な情報であるため、捏造の可能性は極めて低いだろう。



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