今回は、下の参考文献から興味深いことをあれこれ紹介する。著者は、ダライ・ラマ14世の大親友で家庭教師でもあったオーストリア人探検家である。生没年、1912年-2006。
○「キュイロン周辺にたくさんある寺院のひとつから黄金の蜀台を盗んだ男の話を聞いたことがある。・・公衆の面前で男の両手が切断され、・・生きたまま、濡れたヤクの皮に縫いこまれた。それからヤクの皮を乾くに任せ、あげくのはては男を奈落の谷底に投げ落としてしまったのだという」(参考文献1;p.112)。
○「チベットの僧職支配は絶対的で、まさに専制独裁政治を思わせるものがある。・・僧侶たち自身は利口なので、自分たちの絶対の権力を過信するようなことはないが、もし仮にそういうことに疑惑を表明するものがいれば、罰を受けることになるであろう」(同p.113)。
以上の2つは、著者が1944年にチベットに到着し、1946年にラサに着くまでの話である。以下はラサ到着の1946年からチベットを出る1951年までの話である。ラサに着いた時、ダライ・ラマ14世は11才だった。
○「祭の場ではそのとき、とりわけ多くの中国人が目についた。中国人はチベット人と同じ種族に属しているのに、チベット人のなかにいるとすぐにそれと分かる。チベット人はそれほどはっきりした細目ではなく、それに顔の形がよくて、赤い頬をしている。金持の中国人の服装はすでにヨーロッパ風の服装に変わっていることが多く、その上中国人は−この点ではチベット人ほど保守的ではない−眼鏡をかけている。たいてい商人で・・」(同p.249-250)。
(中略)
○「貴族たちの農場はたいへんな広さで・・どの所有地にも何千人もの農奴がついている。農奴たちは自分たちの食い扶持にわずかの畠をあてがわれていたが、その他に領主のために一定期間働かねばならない」(同p.369)。
(中略)
参考文献:
1.「セブン・イヤーズ・イン・チベット」(ハインリヒ・ハラー/1997/角川文庫)
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