チベットFAQ 〜ダライ・ラマ派の嘘一覧〜

ダライ・ラマ派が世界中で執拗に撒き散らしているチベットについての大嘘の数々を徹底論破するための一問一答。

チベットのことで中国を非難する反中勢力は、やれ侵略だ弾圧だ虐殺だ民族浄化だなどと、センセーショナルな単語を並べ立てて中国を悪魔化している。しかし、実はそれらの情報はダライ・ラマ派が国際社会の同情を集めるために捏造した反中・嫌中デマである。ここではその虚構性を数々の証拠を挙げながら証明していく。

これらの大嘘は日本や欧米などにおいて「中国人は残虐で危険な民族である」として、在外中国人や中国系移民への差別や排斥を助長している明らかなヘイトスピーチであるので、一刻も早くヘイトスピーチ禁止法によって取り締まられなければならない。

以下の1〜16までの節はダライ・ラマ派が世界的に流布している嘘に対する反論で、A〜Dまでの節は日本の嫌中ネトウヨが日本国内でのみ流布している嘘に対する反論である。



目次
1. 「1951年に中国は独立国チベットを侵略した」
2. 「1951年以前のチベットに帝国主義の支配はなかった」
3. 「1951年以前のチベットに封建農奴制はなかった」
4. 「1951年以前のチベットに餓死はなかった」
5. 「17条協定の調印は武力脅迫と印鑑偽造によるもの」
6. 「中国のチベット侵略は時代に逆行する暴挙」
7. 「1959年以前のチベット人の全人口は600万人」
8. 「中国政府に殺されたチベット人は120万人以上」
9. 「中国政府はチベット語の使用を禁止している」
10. 「中国政府はチベットの文化と宗教を弾圧している」
11. 「漢族がチベットに大量移住している」
12. 「チベット近代化の恩恵を受けているのは漢族だけ」
13. 「焼身自殺はチベット弾圧の証拠」
14. 「チベットの本来の版図は大チベット地域」
15. 「パンダはチベットの動物」
16. 「ダライ・ラマ14世は非暴力主義者」
A. 「日本もチベットのように中国に侵略される」
B. 「チベットは軍隊を持っていなかった」
C. 「中国共産党の虐殺でチベットの人口が激減した」
D. 「藤岡信勝がチベット虐殺の証拠写真を広めた」



1. 「1951年に中国は独立国チベットを侵略した」


■ダライ・ラマ派の嘘

チベットは清王朝崩壊直後の1913年に中国から独立した、れっきとした独立国であった。その証拠に、当時のチベットには中国とは異なる独自の貨幣とパスポートがあった。それなのに、中国は1951年にこの独立国を一方的に侵略し、支配した。

■真実

1913年から1951年までのチベットは独立国ではなく、英国の帝国主義の傀儡政権に過ぎなかった。また、1951年に行われた中国のチベット平和解放も英国の帝国主義に奪われた国土を回復したに過ぎず、侵略ではない。

英国のチベット支配の実態については次節の
「1951年以前のチベットに帝国主義の支配はなかった」への反論に譲るが、当時のチベットは英国の強い影響下にある半植民地であった。

英国は清王朝末期以来、英領インド帝国の隣に位置するチベットへの侵略を続け、1914年にはダライ・ラマ政権との間で「シムラ条約」を調印した。これはチベットを独立国とするものではなく、傀儡政権を設置するための条約であり、いわば日本が中国東北部に傀儡国家の満洲国を建設したのと似ている。なお、中華民国はこの条約を認めていない。

この当時もチベットは国際社会から独立国と承認されてはいなかった。例えば、戦前の日本、米国、ドイツで発行されたいずれの世界地図でもチベットは必ず中国の一部として色分けされている。

中華民国時代もチベットは一貫して中国の一部であった
昔の日本の中国地図でもチベットと新疆は中国の一部

なお、中華民国も当初から一貫してチベットの独立を認めていない。

中華民国の版図でもチベットと新疆は中国の一部

この頃にチベットを独立国と認めていた国があるとすれば同じく1911年に独立したと自称する外モンゴルであるが、外モンゴルも長く国際社会から独立国と承認されてこなかった。当時のチベットと外モンゴルはいわば「独立国もどき」同士で「チベット・モンゴル相互承認条約」を結んだが、同条約すらもソビエト連邦の後ろ盾で1924年に社会主義国家モンゴル人民共和国が成立した後に破棄された。

こうして第二次世界大戦が終わり、続いて中国本土の国共内戦が共産党の勝利に終わった後、1949年に中華人民共和国が成立して国内の混乱がほぼ収束したことにより中国政府が人民解放軍を派兵し、チベットから英国の帝国主義を駆逐したのが1951年のチベット平和解放というわけである。

チベット平和解放は中国中央政府側とチベット地方政府側の双方が話し合った末に17条協定を調印したことにより行われた合法的な国土の統一である。ダライ・ラマ派はこの17条協定の調印に対し、後年になってから武力脅迫だの印鑑偽造だのがあったとして無効だと言い張っているが、その詳細については「17条協定の調印は武力脅迫と印鑑偽造によるもの」への反論に譲る。

さらに、中国のチベット領有は西側諸国を含めた国際社会からも公式に認められている。これはすなわち、チベット平和解放は国際社会の公式見解では不法占拠でなく合法的な国土の統一であると考えられている証拠であり、中国のチベット領有を認めていないのはダライ・ラマ派と西側諸国の民間の反中勢力だけである。

チベット平和解放は事実上、西側諸国すら承認している
西側諸国も公式に認める中国のチベット領有

さて、これだけの事実がありながら、「中国とは異なる独自の貨幣とパスポート」なるものがあったというだけで1951年以前のチベットが独立国だったなどと言えるのだろうか?さすがにそれは無理があるというものである。

現在の香港には「香港ドル」、マカオには「マカオパタカ」という中国本土の人民元とは異なる独自の貨幣があり、両地域にはそれぞれ独自のパスポートも存在しているが、決して独立国ではない。香港とマカオは中国本土とは別の政治体制が存在している地域であるが、あくまでも中国国内の特別行政区である。かつてのチベットもこれらと同様だと考えれば納得がいく。

独自の貨幣とパスポートは独立国の証ではない

よって「1951年に中国は独立国チベットを侵略した」などという歴史的事実は存在せず、チベットの「独立」なるものは実際には英国の傀儡政権になったというだけに過ぎないし、チベットに対する「侵略」なるものは実際には中国が英国の帝国主義を駆逐したというだけに過ぎず、この問題で中国が非難されるようなことなど何もないのである。

チベット平和解放は侵略だという嘘



2. 「1951年以前のチベットに帝国主義の支配はなかった」


■ダライ・ラマ派の嘘

1951年以前のチベットには西洋人はたったの数人しかおらず、中国政府が言うようなチベットを支配する帝国主義などなかった。よってチベットが中国政府に解放される必要はなかった。

■真実

1951年以前のチベットは間違いなく英国の帝国主義の半植民地支配下にあり、ダライ・ラマ政権自体が英国の傀儡政権であった。このことはチベット問題の第三者の立場にあった戦前日本が発行した公文書や中国地図などにも記録されている。

日本の外務省外交史料館が所蔵する戦前日本の公文書を取り上げている寺島英明『中国少数民族「独立」論』(東京図書出版)のP92-93によれば、外務省記録『青海政況及事情関係雑纂』の「第三七八号」の広田在モスクワ大使から斎藤外相宛電信のモスクワの『プラウダ』1932年6月20日号所載の「日本ハ満洲ニ於テ、英国ハ西蔵ニ於テ」に「……達頼喇嘛ハ英国ノ傀儡ニシテ英国ハ其大西蔵案ヲ支持シ支那ノ西部地方殊ニ蘇聯邦ト直接境ヲ接スル新疆ニ其勢力ヲ拡充セントスルモノナリ……」とある。ちなみに「西蔵」とはチベットのことで、「達頼喇嘛」とはダライ・ラマのことである。

さらに同書のP83によれば、日本の善隣協会が1935年に出版した『赤化線上の蒙古と新疆―支那辺境の諸問題』という本のP235には「西蔵境域の郵便、電信、林鉱、金融、交通、軍事、警察等はすべて英人の操縦に委ねられてゐる」と記述されており、当時の「英人」、すなわち英国人がチベットで様々な利権を築いていたことがわかる。このあたりに関連する事情は以下の記事に詳しくまとめられている。

ダライ派のデマを斬る4魚拓
ダライ派のデマを斬る5魚拓

また、1942年の日本の中国地図では日本の占領地が「親日地方」、新疆省(現在の新疆ウイグル自治区)などが「親ソ地方」、そして西蔵(チベット)が「親英地方」とされており、これも当時の英国がチベットに影響力を持っていたことを示す証拠の一つである。

1942年の日本の中国地図
昔の日本の中国地図でもチベットと新疆は中国の一部

そもそも、ダライ・ラマ派の言う「1951年以前のチベットには西洋人はたったの数人しかいなかった」というのが仮に事実だったとしても、それでも植民地支配は可能である。なぜなら植民地支配というのは帝国主義本国出身の人間の手だけによって行われるのではないからである。

例えば、英国は英国本国よりもずっと人口の多いインドを長期にわたって支配し続けたが、その手先として多くのインド人を懐柔して利用し、植民地体制を維持していたことはよく知られている。英国はチベット支配の際にも同じ手口を用いたことは間違いなく、そんなこともわからないようでは「私は高校レベルの世界史すらろくに学んだことがないですよ」と自白しているようなものである。

よってかつてのチベットが英国の帝国主義による半植民地支配下に置かれ、ダライ・ラマ政権が英国の傀儡政権になっていたことは明白であり、その支配に終止符を打ったのが中国中央政府による1951年の平和解放だったのである。

チベット平和解放は侵略だという嘘



3. 「1951年以前のチベットに封建農奴制はなかった」


■ダライ・ラマ派の嘘

1951年以前のチベットには中国政府が言うような残酷な封建農奴制などなく、チベット人はみな幸せに暮らしていた。よってチベットが中国政府に近代化される必要はなかった。

■真実

1951年以前のチベットが残酷な封建農奴制社会だったことは中国の史料だけでなく、チベット問題の第三者の立場にあった戦前日本人の旅行記や戦前日本の公文書にも記録されている。

日本人としては初めてチベットを旅行した僧侶である河口慧海は1904年頃、当時のチベットは貴族階級が人々を生殺与奪する権利を握り、重税を課して搾取支配する封建農奴制社会だったことを著書『チベット旅行記』の「第百一回 法王政府」に記録している。

旧チベットは貴族階級が支配する封建奴隷制社会だった

それによれば、貴族階級が人々から徴収する人頭税は「随分苦しい税」であり、それを毎年納めることのできない者は「擲(な)ぐられた上に自分の財産を没収」されたのだという。そのような貧民たちは地主から金を借りて生きていくしかないわけであるが、当然積もりに積もった借金を返済できるはずもなく、見返りに子供を地主の「生れながらの奴隷」にされ、「十五年も二十年もただ使い」されたのだという。

また、日本の外務省外交史料館が所蔵する戦前日本の公文書にも同様の事実が記録されている。寺島英明『中国少数民族「独立」論』(東京図書出版)のP96によれば、外務省記録『西蔵問題及事情関係雑纂第一巻』の「西蔵事情ニ関スル件」に1926年頃のチベット(=西蔵)の社会状況について、「……西蔵人ノ生活ハ極メテ原始的ニシテ階級制度支配的勢力ヲ有シ衣服ニ依リ階級別定メラレ居レリ……」と記述されている。

さらに同書のP97によれば、外務省記録『西蔵問題及事情関係雑纂第一巻』の「外発秘第一七七二号」の湯沢兵庫県知事から広田外相宛電信の「西蔵視察情報入手ニ関スル件」には1935年頃のチベットの社会状況について、「……平民階級ニ至ツテハ……終日牛馬ノ如ク労働シテ与ヘラレルモノハ一碗ノ飯一夜ノ睡眠ニスギナイ、今西蔵ノ一般平民ノ情況ヲ視ルニ何等之ト異ナル所ガナイ……西蔵人ハ封建社会制度ノ上ニアツテ自由ナル事能ハズ物資ノ供給又欠乏ヲツゲルガ故ニ少数貴族富商以外皆テ困窮シ就中一般僧侶農民及牧人ハ特ニ甚シイ」(一九三五年六月十日)とある。

よってかつてのチベットが残酷な封建農奴制に支配されていたことは明白であり、それがダライ・ラマ派が「チベットが中国から独立した」と主張する1913年以後も続き、中国中央政府による1951年の平和解放と1959年の民主改革を経てようやく撤廃されたのである。

写真で見る平和解放前と平和解放後のチベット



4. 「1951年以前のチベットに餓死はなかった」


■ダライ・ラマ派の嘘

1951年以前のチベットには歴史上、餓死というものがなく、チベット人が食べる物に困ることなどなかった。それなのに、中国に支配されてから初めて餓死が発生するようになった。

■真実

一体何を根拠にそんなご大層なことを自信満々に断言できるのかはわからないが、1951年以前のチベットの歴史上、一人たりとも餓死者など出したことはなかったと言いたいのであれば、それは明らかな嘘である。

チベット史の文献には、明王朝の時代の1409年頃、チベットでは「飢饉のおこらない年はない」と記述されており、中華人民共和国成立前の1947年にもチベット族のパサンさんの話として、「母と弟が飢え死に」したということが記述されている。

ダライ派のデマを斬る1魚拓

また、20世紀初頭にチベットを旅行した日本人僧侶の河口慧海も著書『チベット旅行記』の「第百八回 チベットと英領インド」に、当時のチベットと英領インドの状況を比べた上で「チベットでは食物がなくなれば誰もくれる者がないから、餓死をしなくちゃあならんというて、一度足を(英領インドの)ダージリンに入れたチベット人の誰もが去るに忍びない心を起すです」と記録している。

旧チベットは英国植民地だった同時代のインドと比べても近代化が遅れていた

よって1951年以前のチベットに餓死自体がなかったとするのは明白な虚偽である。



5. 「17条協定の調印は武力脅迫と印鑑偽造によるもの」


■ダライ・ラマ派の嘘

17条協定の調印は中国側が武力脅迫と印鑑偽造によって行ったものであり、無効である。

■真実

そもそもの問題として、中国中央政府側がチベット地方政府側を武力で脅迫して17条協定に調印させたのならわざわざ相手の印鑑を偽造する必要などないし、印鑑を偽造して勝手に協定に調印したのならわざわざ相手を武力で脅迫する必要などない。ダライ・ラマ派にしても、彼らの主張を鵜呑みにしている反中勢力にしても、自らの二つの主張が相互に矛盾していると気づかないのだろうか?

まず、武力脅迫というのは事実か?これは嘘である。その証拠に、当時のダライ・ラマ14世本人が17条協定に進んで賛同していた公文書が残っている。それによればダライ本人はもちろんのこと、「チベット地方政府、僧侶、住民は、一致してこれ(17条協定)を支持」したのだという。そして「毛主席や中央人民政府の指導の下で、国防の強化のために、人民解放軍に積極的に協力していく。また、チベットにある帝国主義勢力を追い払い、祖国の領土や主権の統一を守っていく」と述べている。

ダライ・ラマ14世も17条協定に賛同していた

また、複数のチベット関連の文献(この中には有名な反中プロパガンダ本であるマイケル・ダナム『中国はいかにチベットを侵略したか』すらある)には、当時のチベット地方政府全権代表であり後のチベット自治区初代主席となるアペイ・アワンジンメイ(訳し方の違いにより「アボ・ジグメ」とも言う)氏が、規律正しく、チベット民衆から略奪をせず、投降したチベット軍捕虜については殺すことなく家に帰したことなど人民解放軍と中国共産党の政策に深く感動し信頼したこと、そしてそれゆえに「聖職者並びに一般国民と共にチベット地方政府はこの十七箇条協定を全員一致で承認」したことなどが記述されている。

ダライ派のデマを斬る3魚拓

これはどう見ても武力による脅迫があったとは言えず、17条協定への賛同は当時のチベット地方政府側の総意であったことがわかる。

では、印鑑偽造はどうか?これもやはり嘘である。反中寄りの『赤いチベット』という本にはダライの姉婿であるプンツォク・タクラ(当時の代表団の一人)氏の話として、「我々は・・チベット政府の印鑑を持参していないのでラサから取り寄せる間待って欲しいと中共当局に言った。・・中共側は「その必要はない、印鑑は当方で用意するから・・」と言った・・」と記述されており、中国中央政府側はことさらに偽物の印鑑を押させたのではなく、親切心から印鑑を用意したに過ぎないのである。

ダライ派のデマを斬る3魚拓

これが後年、「中国側が印鑑を偽造した」という話に歪曲・捏造されてしまったわけである。

よって17条協定の調印にあたって中国中央政府側が武力脅迫も印鑑偽造も行った事実はなく、チベット平和解放は合法的に行われたことである。



6. 「中国のチベット侵略は時代に逆行する暴挙」


■ダライ・ラマ派の嘘

第二次世界大戦が終わり、侵略や植民地支配が明確に悪とされる時代になった1951年に行われた中国のチベット侵略は時代に逆行する暴挙である。

■真実

当サイトで何度も説明しているように、中国のチベット平和解放はそもそも独立国への侵略ではなく、英国という帝国主義の侵略者に奪われた国土を回復しただけに過ぎない、むしろ被侵略側による正当な国家主権の行使である。

チベット平和解放は侵略だという嘘

これによく似た同時代の被侵略側による国家主権の行使としては、エジプトのスエズ運河国有化やインドのゴア接収などが挙げられる。中国のチベット平和解放と同時代である第二次世界大戦終了後の20世紀後半、エジプトは英国に奪われたスエズ運河を、インドはポルトガルに奪われたゴアを、それぞれ国家権力を発動して多少強引に取り返している。

スエズ運河国有化とは、1956年にエジプト政府が植民地時代に英国のものとなっていたスエズ運河をエジプト国有とすることを宣言したこと。これにより利権を失うことを恐れた英国とフランスがこの措置は不法であるとして反発し、イスラエルをもけしかけて第二次中東戦争(スエズ戦争)を起こした。しかしエジプトはこの戦争に勝利し、スエズ運河国有化も国際社会に認められ、当時のエジプトのナセル大統領は一躍アラブ世界の英雄となった。

スエズ運河国有化(スエズうんがこくゆうか)とは魚拓
スエズ運河魚拓
スエズ運河国有化魚拓

ゴア接収とは、1961年にインド政府がポルトガル政府に対して「インドにあるポルトガル領のゴア、ディウ、ダマンをただちに放棄せよ」と通達したのち、この3つのポルトガル植民地に武力進攻し、接収したこと。ポルトガル側はインド側の行為を侵略であると非難したが、結局ポルトガル総督はパキスタンに逃れ、こうしてゴア、ディウ、ダマンは陥落し、インド領となった。

ゴア州(ゴア)とは魚拓
ゴア魚拓

中国のチベット平和解放も規模は大きいとはいえ、これらとほぼ同じである。そもそもの元凶である英国およびその傀儡であったダライ・ラマ一味から見れば中国が侵略者に見えるのであろうが、客観的に見れば英国こそがチベットを半植民地化した侵略者であり、その傀儡であったダライ・ラマ一味は侵略者に協力した裏切り者である。よって時代云々を言うのであれば、20世紀後半に被侵略側による正当な国家主権の行使をしたに過ぎない中国のチベット平和解放は時代に逆行する暴挙でも何でもない。

時代云々を持ち出すことにより、19世紀後半から20世紀前半にかけての日本帝国主義によるアジア侵略が「当時はそういう時代だったから」として正当化されるのであれば、20世紀後半の中国のチベット平和解放も「当時はそういう時代だったから」として正当化されるし、それどころか下手をすれば同じ1950年代に起きた南朝鮮による竹島武力占拠までもが正当化されてしまうであろう。

竹島問題に関する考察・その1魚拓



7. 「1959年以前のチベット人の全人口は600万人」


■ダライ・ラマ派の嘘

ダライ・ラマ14世が国外に亡命する1959年以前のチベット人の全人口は600万人である。

■真実

どういった統計データに依拠しているのかもわからない根拠不明の数字であり、信憑性がない。また、ダライ・ラマ派は時に「現在のチベット人の全人口は600万人である」と発言することもあるが、人口が増えるのが当たり前の20世紀から21世紀にかけての時代に半世紀以上も人口に変化がなかったとするのは不自然である。

ちなみに、中国の国勢調査によれば中国全土のチベット族の全人口は1953年に277万5000人、1990年に459万3000人、そして2010年には628万2200人へと順調に増え続けている。こちらはダライ・ラマ派が主張する人口とは違い、一国の国勢調査に基づく数字なので信憑性が高い。

チベットおよびチベット族の人口推移
フランスの学者「乳児死亡率などの人口学的指標は捏造できない」



8. 「中国政府に殺されたチベット人は120万人以上」


■ダライ・ラマ派の嘘

中国政府はチベット人の全人口600万人のうちの5分の1にあたる120万人以上を殺した。また、中国政府は現在も強制断種など残酷な方法を用いてチベット人を民族浄化している。このままではチベット人は民族絶滅に追い込まれてしまう。

■真実

前節の「人口600万人」と同じく、「犠牲者120万人以上」も客観的証拠のない数字である。これについては、英国ロンドンに本部を置く反中団体である「自由チベット運動」(Free Tibet Campaign)の元幹部であるパトリック・フレンチですら、米国ニューヨーク・タイムズの記事にて次のように認めている。

He May Be a God, but He’s No Politician魚拓
[原文]

For example, the Free Tibet Campaign in London (of which I am a former director) and other groups have long claimed that 1.2 million Tibetans have been killed by the Chinese since they invaded in 1950. However, after scouring the archives in Dharamsala while researching my book on Tibet, I found that there was no evidence to support that figure.

[日本語訳]

例えば、ロンドンの自由チベット運動(私はその元幹部である)や他のグループらは、「彼ら(中国)による1950年の侵略以来、120万人のチベット人が中国人によって殺された」と長らく主張してきた。しかしながら、私はチベットに関する自著の調査をすると同時にダラムサラ(チベット亡命政府の所在地)で公文書を探し回ったのち、その数字を裏づける証拠がないことに気づいた。
さらに言えば、中国全土のチベット族の全人口は1953年の277万5000人から2010年の628万2200人へと急増し、チベット自治区に住むチベット族に限定しても1964年の120万9000人から2008年の270万人へと、やはり急増している。そして、同様に平均寿命も1959年の35.5歳から2007年の67歳へと、大幅に延びている。

チベットおよびチベット族の人口推移
チベットの平均寿命の推移
フランスの学者「乳児死亡率などの人口学的指標は捏造できない」

もしもダライ・ラマ派が言うような「120万人大虐殺」やら「強制断種」やらといった凄まじい「民族浄化」がチベット族という民族全体に対して行われているのであれば、チベット族の人口も平均寿命も激減するはずであるが、実際には民族絶滅どころか逆に人口が倍増しているし、平均寿命も大幅に延び続けている。

対するダライ・ラマ派が提示する「民族浄化」の「証拠」とやらは、自称被害者による真偽不明の「証言」とやらや、出所不明の「写真」とやらばかりで、公文書や統計データなど客観性のある証拠は何も出すことができていない。また、例えば日本軍の南京大虐殺が歴史的事実であることを裏づける加害者側の記録のようなものもチベットにはない。

つまり、中国政府はチベット族を民族浄化しているのではなく、チベット族のうちのごく一部に過ぎない反政府ゲリラやテロリストといった犯罪分子を処断しているだけである。これが、ダライ・ラマ派の言う「民族浄化」とやらの正体である。

ダライ・ラマ派とCIAの関係

そもそも中国には55にものぼる多種多様な少数民族がいるが、一部の者が反政府テロを起こしているチベット族、ウイグル族、モンゴル族の3民族以外の少数民族が民族浄化されているなどとする話を反中勢力の口からすら全く聞かないのはなぜだろう?

中国少数民族一覧表魚拓



9. 「中国政府はチベット語の使用を禁止している」


■ダライ・ラマ派の嘘

中国政府はチベット人がチベット語を使用することを禁止し、学校教育などでも中国語の使用を強制している。このままではチベット語は消滅してしまう。

■真実

(工事中)



10. 「中国政府はチベットの文化と宗教を弾圧している」


■ダライ・ラマ派の嘘

中国政府はチベットの文化と宗教を弾圧している。また、多数のチベット寺院を破壊した。これは文化的ジェノサイドである。

■真実

(工事中)



11. 「漢族がチベットに大量移住している」


■ダライ・ラマ派の嘘

漢族がチベットに大量移住し、人口侵略をしている。清王朝が崩壊した1912年から中国共産党に占領される直前の1950年までチベットには漢族は全くいなかったのに、近年のチベットではチベット人約600万人に対して漢族は約750万人に上り、チベット人が少数派に追い込まれている。

■真実

この「チベット人約600万人に対して漢族約750万人」という数字も根拠不明で信憑性がない。また、チベット高原は生まれつき高地適応能力を持った人間でなければ空気の薄い過酷な環境下で命を落とす危険性すらある場所で、低地からやってきた大勢の人間が長期間にわたって定住することなどほぼ不可能である。

米国やオーストラリアの研究者らによる研究によれば、チベット族だけが持つ特殊な高地適応遺伝子というものがあるとのことで、そのおかげでチベット族は高地で暮らすことができ、そのような遺伝子を持たない漢族をはじめとする他の民族はそのほとんどが高地で暮らすことができないのである。

チベット族だけが持つ特殊な高地適応遺伝子がある

実際、20世紀初頭にチベットを旅行した日本人僧侶の河口慧海もチベット滞在中、何度も体調を崩しては血を吐いており、その原因はチベットが空気の薄い高地だからであると著書『チベット旅行記』に記録している。さらに、近年も日本旅行医学会や旅行会社が日本人旅行者に対し、チベットでは高山病にかかって死ぬ可能性すらあるので、十分に気を付けてほしいと警告している。

河口慧海がチベット訪問時に何度も血を吐いている
旅行会社などがチベットでの高山病の危険性を警告

そして、2000年の第5回国勢調査時にはチベットの総人口261万6300人に対してチベット内のチベット族人口241万1100人で、依然としてチベット総人口の9割をチベット族が占めている。

中国の人口統計ではチベット人口の9割がチベット族
フランスの学者「乳児死亡率などの人口学的指標は捏造できない」

よって一国の国勢調査による統計データを見ても、大勢の漢族がチベット高原に定住することが物理的に不可能な事実を見ても、ダライ・ラマ派の言うような「漢族がチベットに大量移住し、人口侵略をしている」などという事実はどこにもないことがわかる。

なお、ついでに言っておくと「1912年から1950年までのチベットに漢族は全くいなかった」というのも誤りである。当時のチベットに少数ながら漢族がいたことは、ダライの師匠でありナチス党員でもあったハインリッヒ・ハラーの反中本『セブン・イヤーズ・イン・チベット』にすら「祭りの場ではそのとき(1947年)、とりわけ多くの中国人が目についた。中国人はチベット人と同じ種族に属しているのに、チベット人のなかにいるとすぐにそれと分かる」として記述されている。

ダライ派のデマを斬る1魚拓



12. 「チベット近代化の恩恵を受けているのは漢族だけ」


■ダライ・ラマ派の嘘

中国政府によるチベット近代化の恩恵を受けているのは移住してきた漢族だけであり、チベット人はみな今もって劣悪な生活を強いられ、搾取され続けている。

■真実

移住してきた漢族も何も、そもそもチベット総人口の9割をチベット族が占めており、チベットに漢族は1割もいない。漢族だけでなくチベット族も普通にチベット近代化の恩恵を享受できている。

その証拠に、中華人民共和国成立以来、チベット族の生活水準が格段に向上していることを示す多くのデータがある。以下、日本が「開拓し、近代化してやった」と自慢する北海道のアイヌ民族の状況と比べてみよう。

統計データのうち特に信憑性の高い人口学的指標だけに限定して見てみてもよくわかる。中国全土のチベット族人口は1953年の277万5000人から2010年の628万2200人へと、チベットのチベット族人口は1964年の120万9000人から2008年の270万人へとそれぞれ倍増し、それでいながら依然としてチベット総人口の9割をチベット族が占めており、平均寿命も1959年の35.5歳から2007年の67歳へと大幅に延びている。

嬰児死亡率は1950年代の43%から2007年の2.45%へと、妊婦死亡率は1950年代の5%から2007年の0.31%へと、そして青壮年の非識字率は1950年代の95%から2000年代の2.4%へと激減し、中国政府が人民の生活水準向上に絶えず尽力し、漢族だけでなくチベット族も、ごく一部の犯罪者を除いた一人ひとりを人間として尊重していることがわかる。

平和解放後のチベットの社会・経済発展データ

対する日本のアイヌ民族支配はどうか。北海道総人口が1807年の3万1353人から1931年の274万6042人に急増(そのほとんどは和人の移住者)し、日本による人口侵略がバリバリ進んでいる一方で、アイヌ民族人口は1807年の2万6256人から1931年の1万5969人へとむしろ激減しており、日本ご自慢の「北海道の開拓と近代化」が和人にばかり恩恵をもたらし、アイヌ民族にとっては何の恩恵にもなっていなかったことがわかる。

人口推移にみる日本のアイヌモシリへの人口侵略

こういうのを搾取と言うのである。ちなみに、徹底的に虐げられたアイヌ民族の人口は戦後の1993年になっても2万3830人にしか増えていない。

また、2017年現在の中国において、歴代チベット自治区主席12名のうち、実に10名がチベット族出身者であり漢族出身者はたったの2名のみである。一方の日本は、アイヌ民族が北海道のトップの地位に就けたことなどアイヌモシリが日本の北海道となった明治時代以来、ただの一度もなく、アイヌ民族初の国会議員として知られる故・萱野茂氏という例外中の例外を除き、アイヌ民族出身者が国政進出できたことなどない。

歴代チベット自治区主席

よって中国のチベット自治区は少数民族の文字通りの自治区であり、搾取のための近代化が行われた日本や欧米の植民地などとは対極に位置する、住民全体の生活水準向上のための近代化が行われている場所なのである。



13. 「焼身自殺はチベット弾圧の証拠」


■ダライ・ラマ派の嘘

近年のチベットで多発している焼身自殺は中国政府がチベット人を弾圧している証拠である。

■真実

焼身自殺があったことで証明できるのは焼身自殺があったという事実だけである。

頭のおかしい一部の者が焼身自殺という異常行動を起こしたからと、それが即座に中国政府がチベット族を120万人以上も殺したとか、民族固有の言語も文化も宗教も禁止しているとか、漢族を大量移住させているなどとする証拠になると決めつけるのは、あまりにも論理の飛躍が甚だしく、短絡的としか言いようのない考え方である。

これを戦時中の日本軍の占領地で起きた抗日運動に当てはめて考えるといい。日本軍の占領地では自殺どころか中国や朝鮮の抗日運動があったし、さらに右翼日本人が親日認定している東南アジアですらベトナムの「ベトナム独立同盟」やフィリピンの「フクバラハップ」、それにビルマ(ミャンマー)の「反ファシスト人民自由連盟」など組織的な抗日運動がたくさん起きていたが、これらをすべて日本軍の数々の残虐行為があった直接の証拠だと考えるのだろうか?

焼身自殺が「チベット弾圧」の証拠になるなら、アジアの抗日運動は南京30万人大虐殺の証拠になるし、朝鮮人やフィリピン人などの慰安婦20万人強制連行の証拠になるし、泰緬鉄道の数十万人強制労働と数万人大量死の証拠になるし、ベトナム人200万人大量餓死の証拠になるし、そして日本がアジア各民族固有の言語も文化も宗教も禁止していた証拠になる。これらすべてを頑なに認めない右翼日本人としてはそれでもいいのだろうか?

こういう残虐行為の事実関係は様々な資料や史料に基づいて客観的に検証されるべきものである。日本軍の残虐行為は専門家たちによるそうした検証により実証されているものだが、「チベット弾圧」にはそれがあるのだろうか?そういう証拠がろくにないからこそ、焼身自殺が「チベット弾圧」の証拠だなどと言われているのではないだろうか?



14. 「チベットの本来の版図は大チベット地域」


■ダライ・ラマ派の嘘

チベットの本来の版図は現在のチベット自治区だけでなく、青海省、甘粛省、四川省、雲南省の一部も含めた「大チベット」地域である。

■真実

(工事中)



15. 「パンダはチベットの動物」


■ダライ・ラマ派の嘘

パンダはチベット固有種の動物である。それを中国が奪い取り、自国のイメージアップのために世界に向けて政治利用している。

■真実

(工事中)



16. 「ダライ・ラマ14世は非暴力主義者」


■ダライ・ラマ派の嘘

ダライ・ラマ14世は一貫して非暴力主義を貫く平和の使者である。そして、そのような偉大な人物だからこそノーベル平和賞を受賞したのである。

■真実

ダライは、1950年代後半からの10年ほどの間、中国と米国が国交正常化するまで、米国CIAからカネと武器を受け取って中国を相手にゲリラ戦によるテロ活動を繰り返していた武装テロリスト集団の頭目であった。よって彼が一貫して非暴力主義や平和主義を貫いてきたなどという事実はどこにもない。

ダライ・ラマ派とCIAの関係

ついでに言えば、ダライの師匠はナチス党員、すなわちかつて第二次世界大戦やホロコーストを起こした犯罪政党の党員であったハインリッヒ・ハラーであり、弟子はオウム真理教の教祖、すなわち日本で地下鉄サリン事件をはじめとする多くのテロ事件を起こしたカルトテロリスト集団の教祖であった麻原彰晃である。

ダライ・ラマ派とナチスの関係
ダライ・ラマ派とオウム真理教の関係

これだけの暴力的な事実がありながら、あろうことかダライのような者がノーベル平和賞を受賞したというのは、それだけ西側諸国の「平和主義者」の基準がおかしいことを示す傍証でしかない。



A. 「日本もチベットのように中国に侵略される」


■嫌中ネトウヨの嘘

一刻も早く憲法改正・再軍備・核武装をしなければ日本もチベットやウイグルのように中国に侵略されて支配されてしまう。

■真実

そもそも日本はチベットや新疆ウイグルとは歴史的背景からして全く状況が違うのでその懸念は全くのお門違いである。

チベットや新疆ウイグルは直近の清王朝をはじめ、数百年間、歴代中国王朝の一部であった。それが20世紀前半の中華民国時代にはチベットが英国の半植民地に、新疆ウイグルがソ連の半植民地にされたため、第二次世界大戦後、1949年の中華人民共和国成立で国内の混乱がほぼ収束したことにより中国政府が人民解放軍を派兵し、チベットから英国の影響力を、新疆ウイグルからソ連の影響力を排除し、国土の統一を果たしただけに過ぎない。

チベット平和解放は侵略だという嘘

簡単に言えば「中国は独立国であるチベットや新疆ウイグルを侵略した」のではなく「中国は英国やソ連に侵略された自国領土であるチベットや新疆ウイグルを取り戻した」のである。

対する日本は中国の領土の一部であったことなど歴史上一度もないので、中国がわざわざ「侵略して支配」する必要など全くない。日本の経済力や技術力が欲しければ、わざわざ軍事侵略などというリスクの高すぎる手段を使わずとも、普通に国際関係を深めればいいだけの話である。

よって「中国の侵略に備える」ために日本が憲法改正・再軍備・核武装をする必要も全くない。どうせ外国を警戒するなら、先の大戦で大日本帝国を潰して日本を武装解除した張本人である米国こそをもっと警戒してはいかがだろうか?



B. 「チベットは軍隊を持っていなかった」


■嫌中ネトウヨの嘘

チベットは軍隊を持っておらず、それゆえ中国に侵略されて支配された。日本の反日左翼が反戦や平和主義を叫ぶのは日本をチベットのように軍隊を持たない国にして中国に侵略させるためである。

■真実

平和解放以前のチベットは普通に軍隊を持っていた。河口慧海『チベット旅行記』の「第百十八回 チベットの兵制」には、1904年頃の時点でチベットが5000人程度の常備兵を有していたことが記録されている。ただ、人口に比して兵力が少ないとも書かれているが、少なくとも軍隊自体を持っていなかったということはない。

旧チベットが軍隊を持たなかったというのは嫌中ネトウヨの嘘

何よりも、日本の外務省外交史料館が所蔵する戦前日本の公文書を取り上げている寺島英明『中国少数民族「独立」論』(東京図書出版)のP82には驚くべきことが記述されている。それによると、チベットが英国の傀儡となっていた1930年頃にチベット軍2500が英国の武器援助のもとに中国の西康省(現在は吸収合併されて存在しない省)を侵略したが、中国軍に撃退されたのだという。

そのソースとして同書のP94には、外務省記録『西蔵問題及事情関係雑纂第二巻』の「辺聞電訊社九日附玉樹至急通信」の「北平晨報仮訳」に「……即チ西蔵軍ノ青海西康ヘノ進入ハ之ニ要スル武器弾薬兵糧ノ供給ヲ為スハ勿論、背後ノ作戦計画ノ指揮モ英人ノ之カ指導ニ参与セサルハ無ク、……坐シテ漁夫ノ利ヲ占メントシ居レルナリ、然ルニ達頼ハ之ヲ察セスシテ反ツテ使嗾サレシナリ……」(一九三三年三月三十一日)とある、と書かれている。ちなみに「西蔵」はチベットのことで、「英人」は英国人のこと、そして「達頼」はダライのことである。

つまり戦前日本の公文書によれば当時のチベットには軍隊があったし、それどころか英国の武器援助を受けて中国領への侵略行為までしていたのである。

よって平和解放以前のチベットは軍隊を持たなかったわけでもないし、平和主義なわけでもないし、そして一方的に「侵略」されていた被害者でもないし、ましてや日本の左翼がチベットを真似ているなどと言い張るのは事実誤認も甚だしい。



C. 「中国共産党の虐殺でチベットの人口が激減した」


■嫌中ネトウヨの嘘

『中国地図冊』(1992年版)によれば、1737年に約800万人いたチベットの人口が1935年には372万人へと、1959年には119万人へと激減した。これは中国共産党によるチベット虐殺の凄まじさを示すデータである。

■真実

確かにその時期のチベットの人口が激減していたのは事実だが、それは中国共産党のせいではない。

大前提として、1737年から1959年とはチベットにとってどのような時代だったかと言えば、歴代ダライ・ラマ政権がチベットを政教一致の封建農奴制によって支配していた時代である。一方で当時からチベットは一貫して清王朝や中華民国の版図内にありはしたが、実際の統治は歴代ダライ・ラマ政権に委任されていた。

そして、その時代にチベットの人口が激減していたということは、それはすなわち歴代ダライ・ラマ政権の統治が凄まじい悪政だったことの証左であり、中国共産党の統治が悪政であることの証左ではないのである。

『中国地図冊』(1992年版)に書かれたチベットの人口推移

そもそも中国共産党が結党されたのは1921年のことで、中国本土で政権の座に就いたのは1949年、チベットを平和解放したのは1951年、そしてチベットの政教一致の封建農奴制を撤廃したのは1959年である。一体どのような魔術を使えば、統治してすらいない1951年以前のチベットの人口を中国共産党が激減させることができると言うのだろうか?歴史を勉強せよ。

なお、2008年のチベットの総人口は287万人であり、そのうちチベット族の人口は270万人である。これは1959年のチベット人口119万人と比べて二倍以上に急増した人口であり、ここから歴代ダライ・ラマ政権の凄まじい悪政とは対照的に中国共産党がチベットにおいて一貫して善政を敷いてきたことが読み取れる。

チベットおよびチベット族の人口推移まとめ
フランスの学者「乳児死亡率などの人口学的指標は捏造できない」



D. 「藤岡信勝がチベット虐殺の証拠写真を広めた」


■嫌中ネトウヨの嘘

日本の愛国者の重鎮である藤岡信勝氏が2014年に「中国軍によって射殺される直前のチベット人女学生の写真」を発掘し、広めた。これはチベット虐殺の証拠写真である。

問題の写真

■真実

藤岡信勝らが広めた写真は「チベット虐殺の証拠写真」などではなく、中国南京にあるSM専門DVD会社「鋭度主張」が2007年に製作したただのSM写真である。その証拠に、同じ日に同じ場所で撮影された写真が何枚も見つかっている。

元ネタ写真1
元ネタ写真2
元ネタ写真3
元ネタ写真4
元ネタ写真5

銃を持った中国軍兵士なる者はどこにも写っていない。なぜならこれはただのSM写真の撮影会だからである。それどころか、もしこれが虐殺の現場であるならどうして縛られている女性たちは笑顔でいるのだろうか?つまり、そういうことである。

ちなみにこの藤岡らの写真捏造の件は中国のインターネットにも広まって笑いのネタになっている。

中国で嗤われる藤岡信勝・その1魚拓
中国で嗤われる藤岡信勝・その2魚拓



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